--明治維新に対して「表面では尊王を前面に出してはいたが、結局のところ薩長が覇権を握るための権力闘争だった」という批判もある。
「権力と覇権だけのためだったら、廃藩置県(藩を廃止して全国を府県に一本化した1871年の中央集権改革)はしなかっただろう。廃藩置県で長州も薩摩もすべてなくなり、武士階級そのものがなくなった。自分の足を自分が切った」
--膨張政策、軍国主義の種が生じたのも明治維新のときではないのか。
「明治維新がその後の膨張政策の必要条件だったことは間違いないが、十分条件だとは言えない。維新の目標が戦争や侵略ではなかった。もちろん、早くから侵略を主張した人もいないわけではなかったし、征韓論(1870年代に台頭した朝鮮征伐論)もあったが、1890年まで政府を実際に主導していた人々にそのような考えはなかった。そのような雰囲気が日清戦争(1894年)までの4年でガラリと変わった。初めは『我々の経済力や軍事力では無理』と考えていたが、力をつけながら軍人を中心に『できる』というほうに判断が変わったようだ」
--明治維新と太平洋戦争は無関係か。
「2つの事件の間に70年の歳月がある。近代化が成功したので隣国を侵略し、米国と戦争をすることは必然ではないだろうか。中間には別の選択肢がいつもあった。明治維新だけにすべての責任をなすり付けてはいけない」
--大院君(テウォングン)の改革など、朝鮮の内部改革が成功していたら両国関係はどうなっていただろうか。
「両国間で戦争はあったかもしれないが、一方的な侵略はなかっただろう」
--もし明治維新がなかったとすれば日本と北東アジアの様子はどうなっていたと考えるか。
「日本人が列島だけに閉じこもっていたとすれば、西洋とはるかに不利な条約をむすび、領土の一部を奪われていただろう。もちろん、朝鮮や中国に対する侵略もなかっただろう」
◆尊王攘夷の母胎、逆説の地・水戸
今月20日に訪れた茨城県水戸市の弘道館周辺は閑静な雰囲気に包まれていたが、観光客の足は途絶えることがなかった。江戸時代、水戸は「水戸学」という学風の本産地だった。明治維新のキャッチフレーズだった「尊王攘夷論」の母胎だ。弘道館は水戸藩の第9代藩主・徳川斉昭が作らせた教育施設だった。ここを中心に各種改革・攘夷政策が推し進められた。
韓国の明治維新研究者ソン・ヒソプは、著書『静かなる革命、明治維新と日本の建国』で、斉昭時代の後期水戸学について「水戸を中心に置かず、『日本全体』という全く違う地平から当時の対外的危機状況を見ていた」とし「その前まで日本の侍たちはこのように考えたことがなかったため、思考の大転換だった」と評価した。
水戸藩は徳川将軍家の一族で、将軍職を継承できるいわゆる御三家の一つだった。実際、斉昭の七男・徳川慶喜は江戸最後の将軍だった。徳川家でありながらも、幕府ではない天皇中心の尊皇攘夷を胎動させた逆説的な地位だった。また、水戸学の「天皇崇拝論」は、後の皇国史観につながったという批判も受けている。
「朝鮮より日本のほうが壊しやすかった…だから明治維新が成功した」(1)
「権力と覇権だけのためだったら、廃藩置県(藩を廃止して全国を府県に一本化した1871年の中央集権改革)はしなかっただろう。廃藩置県で長州も薩摩もすべてなくなり、武士階級そのものがなくなった。自分の足を自分が切った」
--膨張政策、軍国主義の種が生じたのも明治維新のときではないのか。
「明治維新がその後の膨張政策の必要条件だったことは間違いないが、十分条件だとは言えない。維新の目標が戦争や侵略ではなかった。もちろん、早くから侵略を主張した人もいないわけではなかったし、征韓論(1870年代に台頭した朝鮮征伐論)もあったが、1890年まで政府を実際に主導していた人々にそのような考えはなかった。そのような雰囲気が日清戦争(1894年)までの4年でガラリと変わった。初めは『我々の経済力や軍事力では無理』と考えていたが、力をつけながら軍人を中心に『できる』というほうに判断が変わったようだ」
--明治維新と太平洋戦争は無関係か。
「2つの事件の間に70年の歳月がある。近代化が成功したので隣国を侵略し、米国と戦争をすることは必然ではないだろうか。中間には別の選択肢がいつもあった。明治維新だけにすべての責任をなすり付けてはいけない」
--大院君(テウォングン)の改革など、朝鮮の内部改革が成功していたら両国関係はどうなっていただろうか。
「両国間で戦争はあったかもしれないが、一方的な侵略はなかっただろう」
--もし明治維新がなかったとすれば日本と北東アジアの様子はどうなっていたと考えるか。
「日本人が列島だけに閉じこもっていたとすれば、西洋とはるかに不利な条約をむすび、領土の一部を奪われていただろう。もちろん、朝鮮や中国に対する侵略もなかっただろう」
◆尊王攘夷の母胎、逆説の地・水戸
今月20日に訪れた茨城県水戸市の弘道館周辺は閑静な雰囲気に包まれていたが、観光客の足は途絶えることがなかった。江戸時代、水戸は「水戸学」という学風の本産地だった。明治維新のキャッチフレーズだった「尊王攘夷論」の母胎だ。弘道館は水戸藩の第9代藩主・徳川斉昭が作らせた教育施設だった。ここを中心に各種改革・攘夷政策が推し進められた。
韓国の明治維新研究者ソン・ヒソプは、著書『静かなる革命、明治維新と日本の建国』で、斉昭時代の後期水戸学について「水戸を中心に置かず、『日本全体』という全く違う地平から当時の対外的危機状況を見ていた」とし「その前まで日本の侍たちはこのように考えたことがなかったため、思考の大転換だった」と評価した。
水戸藩は徳川将軍家の一族で、将軍職を継承できるいわゆる御三家の一つだった。実際、斉昭の七男・徳川慶喜は江戸最後の将軍だった。徳川家でありながらも、幕府ではない天皇中心の尊皇攘夷を胎動させた逆説的な地位だった。また、水戸学の「天皇崇拝論」は、後の皇国史観につながったという批判も受けている。
「朝鮮より日本のほうが壊しやすかった…だから明治維新が成功した」(1)
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