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韓国初のファーストレディのオーストリア人・フランチェスカの遺言「私の棺桶に太極旗入れて」

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

韓国初のファーストレディ、フランチェスカ夫人。彼女の生涯を描いた戯曲が出版された。(写真=中央フォト)

オーストリアで生まれて無国籍独立活動家と結婚した彼女は常に韓服を着用し、韓国料理だけを口にした。「私の棺桶の中には米国で独立運動する時に使った太極旗を入れてほしい」と嫁に遺言を残した。大韓民国初のファーストレディ、フランチェスカ・ドナー(1900~92)のことだ。夫の李承晩(イ・スンマン、1875~1965)大統領が彼女に付けた韓国名はイ・クムスン、イ・ブラン(李富蘭)だ。

来年はフランチェスカ生誕120周年だ。最近出版された卜鉅一(ポク・コイル)作家(72)の『楽劇フランチェスカ』は、フランチェスカと李承晩の愛に焦点を当てている。2人が初めて会った瞬間からフランチェスカの死までを扱っている。3幕で構成された4時間分の戯曲で、「李承晩・フランチェスカ概論」ともいえる。87ページ分の「作家あとがき」に夫妻の足跡と業績をまとめた。「李承晩のない大韓民国はなく、フランチェスカのいない李承晩はいなかった」というのが著者の主張だ。


李承晩大統領を「独裁者」として記憶している人々がいるように、ファーストレディのフランチェスカに対しては「夫の目と耳を防ぐ過剰保護で第1共和国の没落を招いた」という否定的な評価もある。


--最近の若者はフランチェスカ夫人のことをよく知らないかもしれない。

「そうだ。フランチェスカ夫人に光を当てることは、現代史から我々が忘れた部分を再び振り返るきっかけになると思う。私はフランチェスカを鮮明に記憶している最後の世代に属する。私が高等学校に入学した年に4月革命が起きた。我々世代がいなくなれば、フランチェスカ夫人の足跡を振り返って文字に記す人はもう出てこないだろうと思い、責任を感じた」

--本の副題が「偶然オーストリアに生まれた韓国女性」だ。

「顕忠院(国立墓地)で彼女と出会ったオーストリア人が彼女に『オーストリア人なのですか』と尋ねると、『私は韓国人です。ただ、偶然オーストリアで生まれました』と答えた。私は李承晩博士よりフランチェスカ夫人のほうを尊敬している。李承晩が独立運動をしたのは当然だ。裕福だが平凡な西洋女性が流浪する朝鮮人革命家の妻になることを決断したのは大変なことだ。2人が初めて会った時、李承晩58歳、フランチェスカ夫人は33歳だった。フランチェスカ夫人の母親は『25年の年齢差や人種の違いは克服できるが、自分の娘を生卵に酢をかけて食べる貧乏人にはやれない』と言って結婚に反対した」

--フランチェスカはどんな貢献をしたのか。

「我々が考えているよりもずっと大きな役割を果たしていた。新生大韓民国は国としての基盤が一つもなかった。人も不足し、知識も不足し、資金はもっと不足していた。国は左右の対立で気が休まる日がなかった。そのような状況で我々の後見国・米国との関係を深めることが重要だった。その時、英語に堪能で永く米国に住んでいて米国の情緒や社会像をよく知るフランチェスカ夫人が非常に大きな役割を果たした。賢哲で勤倹な女性だった。英語・ドイツ語・フランス語に堪能で、タイプ・速記に長けていて、李承晩の独立運動に大きく貢献した。李承晩が日本の米国侵攻を予言した『日本の内幕記』を書いたとき、3回もタイピングして指がただれたほどだ。彼女の助けなかったら、本が日本の真珠湾爆撃半年前に出版されることはなかった。本の予測が現実化すると、李承晩は『予言者』の名声を得た。彼の独立運動に役立った」

--李承晩-フランチェスカはどんな夫婦だったか。

「李大統領は性格が荒っぽくて激しかった。私が知る革命家のうちでも最も激しい性格の持ち主だ。相手が拳を使えば自身も拳を使う人だった。彼が怒ったり癇癪を起こしたりすると、フランチェスカ夫人は口答えせずに逃げた。怒りが収まる時を見計らって再び現れた。李承晩が自身の過ちに気づき、反省する時間を与えた」

--李承晩大統領を評価するとしたら。

「知れば知るほぼ『ああ、こういう人もいるんだ』と感心させられるような人だ。英国詩人ドライデンの表現を借りると『英雄的に狂った(heroically mad)』人だった。彼は政敵を登用した。簡単ではないことだ。最近話題の『協力統治』を実践した」



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