ちょうど30年ぶりだ。1988年に明るく輝いたソウルオリンピック(五輪)聖火が、2018年、江原道平昌(カンウォンド・ピョンチャン)に再び灯される。平昌冬季五輪開幕までちょうど1週間残った。30年前、私は軍入隊訓練を受けていた。当時、休憩時間に教えてもらった1曲の歌が思い出される。チョー・ヨンピルの『ソウル・ソウル・ソウル』だ。「ソウル、ソウル、ソウル 美しいこの街」を口ずみながら、オリンピックを間近で見ることができない残念な気持ちを慰めた。
ソウル五輪といえば真っ先に思い出される「輪転がし少年」の映像も後で見物した。88年9月17日の開幕式当日、ソウル蚕室(チャムシル)総合運動場の青い芝生を対角線に横切った白いシャツを着た7歳の少年が忘れることのできない感動を伝えたという事実も後で分かった。81年9月30日、ドイツ・バーデン=バーデンでソウルを五輪開催地として発表した日に生まれた子供は、いつのまにか40歳に手が届く年齢になった。
ふくよかな体格の輪転がし少年は、変化した80年代の韓国を象徴した。貧困と戦争の国で知られていた韓国の顔を変えた。それぞれ片割れオリンピックだった80年モスクワ五輪、84年ロス五輪の東西対立を越えた。スローガン「壁を越えて」も時期的にぴったりだった。翌年、まるで鉄壁だったベルリンの壁が壊される大事件が起きた。「極端の時代」20世紀に送る頌歌も同然だった。
輪転がし少年は、李御寧(イ・オリョン)初代文化部長官の業績だ。「五輪開幕式に子供が登場した事例はない」「行事の途中で子供がおしっこをもらしたらどうするのか」などの反対を押し切って少年を登場させた。戦争孤児や分断国家のイメージに閉じ込められた韓国で芽生える生命を見せようとしたという説明だ。彼が興味深いエピソードを公開した。オリンピックが終わった後、輪転がし少年に聞いたところ、この子はもともと左利きだったという。李長官はそれも知らずに、ソウル平倉洞(ピョンチャンドン)の自宅で1カ月間、少年に右手で輪を転がすように練習させた。「いっそ左手でやらせればどうだっただろうか。世の中には右利きだけがいるのではない。マイノリティを受け入れる世の中、少数と多数が仲良くすることがすなわちオリンピック精神ではないか。それでも『壁を越えて』を叫んでいたから、瞬間恥ずかしさで怒りが込み上げた」と回想した。
1週間後、平昌開幕式にも少年が登場する。世界の人々を歓迎する鐘の音が鳴り響き、世の中が白い氷で覆われる中、江原道に住む子供5人が平和の冒険に出る。多くの叫びと苦難を通過し、今日に至った韓国人のDNAを媒介にして地球村の疎通と平和を祈ろうとしている。30年前のソウル五輪の再放送を見るような既視感をどのように克服するのか気になる。「左利きオリンピック」のような新しい衝撃を与えることができるか期待が大きい。
少年・少女は最近の五輪開幕式の常連レパートリーだ。開催国、開催都市のアイデンティティを表わすアイコンになった。2000年シドニー五輪では白人少女が、2008年北京では漢族少女が、2010年バンクーバーでは白人少年がスポットライトを浴びた。象徴コードをめぐり、輪転がし少年の後継と見ることができる。実際、2004年アテネ五輪でエーゲ海を横切る紙船に乗った少年を演出したギリシャの芸術家パパイオーンノーは昨年訪韓時ソウル五輪)でモチーフを取ってきたと話した。
現代の五輪開幕式は超ビッグイベントだ。開催国の文化力を結集する総合芸術でもある。その始まりは1936年ベルリン五輪からだ。ナチズムを宣伝する場所に変質し、その後オリンピックが国家・商業主義に汚染されたという批判を痛烈に受けたが、平和に向かうオリンピック精神は否定できない。今、平昌の事情は30年前のソウルよりましだとは言えない。「理念の壁」は低くなったが、自国の利益だけ追う「国家の壁」は高くなった。“平壌(ピョンヤン)変数”は依然として不安で、五輪以降を心配する声も大きい。平昌の聖火がそのような雑音を燃やし尽くすことができるだろうか。アフリカ選手が氷の上を滑り、外国人出身15人が太極マークを付けた平昌五輪、もう少し多くの「左利き」に希望をかけてみたい。今は「壁を越えて混ざる」時だ。それが平昌がソウルを越える道だ。
パク・ジョンホ/文化・スポーツ担当
ソウル五輪といえば真っ先に思い出される「輪転がし少年」の映像も後で見物した。88年9月17日の開幕式当日、ソウル蚕室(チャムシル)総合運動場の青い芝生を対角線に横切った白いシャツを着た7歳の少年が忘れることのできない感動を伝えたという事実も後で分かった。81年9月30日、ドイツ・バーデン=バーデンでソウルを五輪開催地として発表した日に生まれた子供は、いつのまにか40歳に手が届く年齢になった。
ふくよかな体格の輪転がし少年は、変化した80年代の韓国を象徴した。貧困と戦争の国で知られていた韓国の顔を変えた。それぞれ片割れオリンピックだった80年モスクワ五輪、84年ロス五輪の東西対立を越えた。スローガン「壁を越えて」も時期的にぴったりだった。翌年、まるで鉄壁だったベルリンの壁が壊される大事件が起きた。「極端の時代」20世紀に送る頌歌も同然だった。
輪転がし少年は、李御寧(イ・オリョン)初代文化部長官の業績だ。「五輪開幕式に子供が登場した事例はない」「行事の途中で子供がおしっこをもらしたらどうするのか」などの反対を押し切って少年を登場させた。戦争孤児や分断国家のイメージに閉じ込められた韓国で芽生える生命を見せようとしたという説明だ。彼が興味深いエピソードを公開した。オリンピックが終わった後、輪転がし少年に聞いたところ、この子はもともと左利きだったという。李長官はそれも知らずに、ソウル平倉洞(ピョンチャンドン)の自宅で1カ月間、少年に右手で輪を転がすように練習させた。「いっそ左手でやらせればどうだっただろうか。世の中には右利きだけがいるのではない。マイノリティを受け入れる世の中、少数と多数が仲良くすることがすなわちオリンピック精神ではないか。それでも『壁を越えて』を叫んでいたから、瞬間恥ずかしさで怒りが込み上げた」と回想した。
1週間後、平昌開幕式にも少年が登場する。世界の人々を歓迎する鐘の音が鳴り響き、世の中が白い氷で覆われる中、江原道に住む子供5人が平和の冒険に出る。多くの叫びと苦難を通過し、今日に至った韓国人のDNAを媒介にして地球村の疎通と平和を祈ろうとしている。30年前のソウル五輪の再放送を見るような既視感をどのように克服するのか気になる。「左利きオリンピック」のような新しい衝撃を与えることができるか期待が大きい。
少年・少女は最近の五輪開幕式の常連レパートリーだ。開催国、開催都市のアイデンティティを表わすアイコンになった。2000年シドニー五輪では白人少女が、2008年北京では漢族少女が、2010年バンクーバーでは白人少年がスポットライトを浴びた。象徴コードをめぐり、輪転がし少年の後継と見ることができる。実際、2004年アテネ五輪でエーゲ海を横切る紙船に乗った少年を演出したギリシャの芸術家パパイオーンノーは昨年訪韓時ソウル五輪)でモチーフを取ってきたと話した。
現代の五輪開幕式は超ビッグイベントだ。開催国の文化力を結集する総合芸術でもある。その始まりは1936年ベルリン五輪からだ。ナチズムを宣伝する場所に変質し、その後オリンピックが国家・商業主義に汚染されたという批判を痛烈に受けたが、平和に向かうオリンピック精神は否定できない。今、平昌の事情は30年前のソウルよりましだとは言えない。「理念の壁」は低くなったが、自国の利益だけ追う「国家の壁」は高くなった。“平壌(ピョンヤン)変数”は依然として不安で、五輪以降を心配する声も大きい。平昌の聖火がそのような雑音を燃やし尽くすことができるだろうか。アフリカ選手が氷の上を滑り、外国人出身15人が太極マークを付けた平昌五輪、もう少し多くの「左利き」に希望をかけてみたい。今は「壁を越えて混ざる」時だ。それが平昌がソウルを越える道だ。
パク・ジョンホ/文化・スポーツ担当
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