北朝鮮兵士1人が銃弾を浴びながら亡命した板門店(パンムンジョム)共同警備区域(JSA)は今でも緊張感に包まれている。北朝鮮軍は亡命兵士の脱出経路にあるすべての部隊に対する経緯の調査はもちろん、一斉に問責に入ると予想される。映画『JSA』(朴賛郁監督、2000年)では、銃撃で韓国兵士イ・スヒョク(イ・ビョンホン)と北朝鮮兵士オ・ギョンピル(ソン・ガンホ)が銃で負傷し、軍事境界線の上に倒れる場面も出てくる。JSAとはどんなところなのだろうか。
JSA(Joint Security Area)は地球上で最後に残った共産陣営と自由陣営が対立する冷戦の現場だ。南北分断と戦争の記憶が生々しく存在するところだ。かつてJSA区域内では南北の間に軍事境界線(MDL)もなく、韓国軍を含む国連軍と北朝鮮軍が混ざって勤務していた。今で見るとMDLの南側に北朝鮮軍の哨所があった。このためJSAで勤務する南北の軍人が自然に会い、言葉も交わし、時には物を分け合ったりもした。1998年2月に板門店を通じて亡命した北朝鮮軍のビョン・ヨングァン上尉(大尉)に対する尋問の結果によると、北朝鮮軍は敵工課という、韓国兵士を抱き込むチームを設けて運営していた。敵工課に所属していたビョン上尉はJSA警備大隊のKATUSA兵士(在韓米軍基地派遣の韓国兵)に北朝鮮の金日成(キム・イルソン)主席の誕生日に掛け軸、花瓶、さらにロレックスの時計までそっと渡す贈り物攻勢で工作活動をした。韓国軍の兵士も北朝鮮軍にワインを渡すなど映画で見られるような状況があったのだ。この過程で韓国軍の4人が北朝鮮軍の工作に抱き込まれたりもしたという。
板門店JSA内で南北の区分が厳格になったのは76年8月18日に発生した「斧蛮行事件(ポプラ事件)」以降だ。当時、JSAで25年経った高さ15メートルのポプラの木が北朝鮮軍の哨所を隠し、監視に支障をきたしていた。このため国連司令部の米軍警備中隊長アーサー・ボニファス大尉と小隊長マーク・バレット中尉など11人がポプラの枝の切断を始めた。米軍の切断作業を見ていた北朝鮮軍のパク・チョル中尉ら15人が中止を要求したが、作業は続いた。すると北朝鮮軍20人ほどが集まって作業に使われた斧を奪い取り、騒動を起こした。北朝鮮軍の突然の攻撃でボニファス大尉とバレット中尉が死亡し、国連軍側8人が重軽傷を負った。こうした北朝鮮軍の挑発に対し、ジェラルド・フォード米大統領の命令でスティルウェル在韓米軍司令官はポール・バニヤン(Paul Bunyan)作戦に入った。この作戦は北朝鮮軍の追加挑発を防ぐために護衛艦5隻を同行した空母「ミッドウェイ」と核兵器搭載が可能なF-111爆撃機20機およびB-52戦略爆撃機3機が動員された中でポプラを切断するというものだった。戦闘準備態勢はデフコン2(攻撃準備態勢)に引き上げられた。米国は北朝鮮がまた挑発すれば戦争も辞さないという雰囲気だった。北朝鮮は挑発をしなかった。当時、臨津江(イムジンガン)で小隊長として勤務していた韓民求(ハン・ミング)元国防部長官は「当時は戦闘に行くものと思っていた」と回顧した。作戦は成功した。結局、ポプラ1本を切るのに歴史的に最も高い値を払ったのだ。ポール・バニヤン作戦が終わった後、北朝鮮は金日成主席の名義で謝罪し、国連司令部はJSA内にMDLを引いて南北がお互い越えないようにした。この時、国連司令部は53年の停戦協定時に捕虜を交換した「帰らざる橋」を閉鎖した。北朝鮮はこの橋を利用できなくなると、72時間で橋をまた建設した。いわゆる「72時間橋」だ。事件発生から10年後、ボニファス大尉への追悼の意を込めて付近の「キャンプ・キティホーク」を「キャンプ・ボニファス」に改名した。
<Mr.ミリタリー>南北が完全に断絶したJSA、これまで何があったのか?(2)
JSA(Joint Security Area)は地球上で最後に残った共産陣営と自由陣営が対立する冷戦の現場だ。南北分断と戦争の記憶が生々しく存在するところだ。かつてJSA区域内では南北の間に軍事境界線(MDL)もなく、韓国軍を含む国連軍と北朝鮮軍が混ざって勤務していた。今で見るとMDLの南側に北朝鮮軍の哨所があった。このためJSAで勤務する南北の軍人が自然に会い、言葉も交わし、時には物を分け合ったりもした。1998年2月に板門店を通じて亡命した北朝鮮軍のビョン・ヨングァン上尉(大尉)に対する尋問の結果によると、北朝鮮軍は敵工課という、韓国兵士を抱き込むチームを設けて運営していた。敵工課に所属していたビョン上尉はJSA警備大隊のKATUSA兵士(在韓米軍基地派遣の韓国兵)に北朝鮮の金日成(キム・イルソン)主席の誕生日に掛け軸、花瓶、さらにロレックスの時計までそっと渡す贈り物攻勢で工作活動をした。韓国軍の兵士も北朝鮮軍にワインを渡すなど映画で見られるような状況があったのだ。この過程で韓国軍の4人が北朝鮮軍の工作に抱き込まれたりもしたという。
板門店JSA内で南北の区分が厳格になったのは76年8月18日に発生した「斧蛮行事件(ポプラ事件)」以降だ。当時、JSAで25年経った高さ15メートルのポプラの木が北朝鮮軍の哨所を隠し、監視に支障をきたしていた。このため国連司令部の米軍警備中隊長アーサー・ボニファス大尉と小隊長マーク・バレット中尉など11人がポプラの枝の切断を始めた。米軍の切断作業を見ていた北朝鮮軍のパク・チョル中尉ら15人が中止を要求したが、作業は続いた。すると北朝鮮軍20人ほどが集まって作業に使われた斧を奪い取り、騒動を起こした。北朝鮮軍の突然の攻撃でボニファス大尉とバレット中尉が死亡し、国連軍側8人が重軽傷を負った。こうした北朝鮮軍の挑発に対し、ジェラルド・フォード米大統領の命令でスティルウェル在韓米軍司令官はポール・バニヤン(Paul Bunyan)作戦に入った。この作戦は北朝鮮軍の追加挑発を防ぐために護衛艦5隻を同行した空母「ミッドウェイ」と核兵器搭載が可能なF-111爆撃機20機およびB-52戦略爆撃機3機が動員された中でポプラを切断するというものだった。戦闘準備態勢はデフコン2(攻撃準備態勢)に引き上げられた。米国は北朝鮮がまた挑発すれば戦争も辞さないという雰囲気だった。北朝鮮は挑発をしなかった。当時、臨津江(イムジンガン)で小隊長として勤務していた韓民求(ハン・ミング)元国防部長官は「当時は戦闘に行くものと思っていた」と回顧した。作戦は成功した。結局、ポプラ1本を切るのに歴史的に最も高い値を払ったのだ。ポール・バニヤン作戦が終わった後、北朝鮮は金日成主席の名義で謝罪し、国連司令部はJSA内にMDLを引いて南北がお互い越えないようにした。この時、国連司令部は53年の停戦協定時に捕虜を交換した「帰らざる橋」を閉鎖した。北朝鮮はこの橋を利用できなくなると、72時間で橋をまた建設した。いわゆる「72時間橋」だ。事件発生から10年後、ボニファス大尉への追悼の意を込めて付近の「キャンプ・キティホーク」を「キャンプ・ボニファス」に改名した。
<Mr.ミリタリー>南北が完全に断絶したJSA、これまで何があったのか?(2)
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