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日本が定着させた麻の寿衣…「収奪を強化しようと風習歪曲」

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

チェ・ヨンウ教授が復元した伝統寿衣の前で日本が麻の寿衣をどのように植民地の朝鮮に広めたかなどを説明している。(写真=檀国大)

2006年に京畿道広州(クァンジュ)の申景裕(シン・ギョンユ、1581-1633)の墳墓から出土した伝統寿衣。朝鮮時代の官職者の礼服である朝服を寿衣として使用した。(写真=檀国大)

麻の寿衣規定などを含む朝鮮総督府の儀礼準則の表紙。寿衣に麻などを使用するよう書かれている。(写真=檀国大)

日本が罪人を象徴する麻の寿衣をどのように植民地の朝鮮で広めてきたかなどを確認する研究結果が出てきた。

冠婚喪祭を重視する儒教思想の中で王室だけでなく民間でも絹などで寿衣を作って親の遺体を覆うことを「孝」と考えたが、日本によって「罪人」が着ていた麻の寿衣に儀礼文化が格下げ・歪曲された過程を説明する研究だ。

チェ・ヨンウ檀国(タングク)大教授(伝統衣装学科)が最近発表した論文「現行麻寿衣の登場背景および拡散過程研究」によると、麻の寿衣は1925年に淑明女子高等普通学校教員の金淑堂(キム・スクダン)(女性)が著した『朝鮮裁縫全書』で本格的に登場する。


金淑堂はその間、韓国初の裁縫教材『朝鮮裁縫全書』の著者として知らされたが、今回の論文で1916年から1921年まで平壌(ピョンヤン)女子高等普通学校の嘱託教員として勤務したことが初めて確認された。平壌女子高等普通学校は日本の植民統治・収奪機関である朝鮮総督府の直属機関。朝鮮総督府の職員録を見ると、金淑堂は月給15-50ウォンを受けたと記録されている。金淑堂はその後、私立学校の淑明女子高等普通学校に移って『朝鮮裁縫全書』を著した。当時、日本が三一独立運動の影響で植民政策を武力による無断統治から「文化統治」に変えた時期だ。

金淑堂は教員という身分を活用し、現実とはかけ離れた寿衣を強調した。その間、学界では朝鮮人の金淑堂がなぜ麻の寿衣の定着に率先したのか明確に説明されていなかったが、朝鮮総督府の職員という身分が明らかになったのだ。麻の寿衣が日帝の残滓という研究は従来からあったが、麻の寿衣の登場背景と拡散過程はチェ教授を通じて今回明らかになった。チェ教授の論文は韓国服飾文化学会の学術誌『韓服文化』最新号(夏号)に掲載された。

チェ教授によると、我々の民族は罪人を象徴する麻の寿衣を避けた。壬辰倭乱当時に避難中の先祖に会いに行かなかったという理由で罪人になった生理学者の成渾(ソン・ホン、1535-98)は遺書に「私は軍部から罪を得たため(中略)服と遺体にかぶせる布は麻にして(中略)私の意志に背くことがないようにしてほしい」という記録が光海君日記(3冊)で伝えられている。父母と死別した子は「罪人」という意味で麻で作った喪服を着た。

朝鮮総督府は金淑堂が強調した麻の寿衣を『儀礼準則』(1934年)に記して公布し、朝鮮社会内での定着・拡散に本格的に乗り出した。金淑堂が親日反民族行為をした根拠は伝えられていないが、結果的に儀礼準則の中の麻の寿衣の土台を築いたということだ。朝鮮総督府は公務員組織を活用するのはもちろん、各種団体、移動講演会などあらゆる手段を総動員し、儀礼準則の定着に乗り出した。麻の寿衣は収奪をさらに強化しようという植民政策の一環というのがチェ教授の説明だ。儀礼準則の公布当時、宇垣一成朝鮮総督は旧態の改善を強調したが、本格的な戦時体制を控えていたという理由でだ。日本は公布2年後の1937年に日中戦争を、1941年には太平洋戦争を起こした。

儀礼準則を通じて植民朝鮮人の窮乏生活を改善しようというのではなく節約した物資を国防金(物品)として献納させようという狙いがあったというのが、チェ教授の説明だ。1938年11月28日に慶尚北道金泉(キムチョン)の商店街で準則に基いて儀礼をした後、節約した現金を大邱(テグ)神社に献納した人物を知らせる内容の記事が日刊新聞に掲載された。

チェ教授は14日、中央日報との電話で「罪人を形象化する麻の寿衣を普遍化し、植民地朝鮮人の精神を疲弊化させた」とし「農家の副業として奨励し、収益金の一部を国防金として献納させた『むしろ編み』のように、麻の寿衣の拡散で得た余剰資産や物資を収奪したりもした。植民政策の一環と解釈できる」と述べた。

一方、檀国大は昨年伝統寿衣展示会を開くなど復元事業に取り組んでいる。



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