父は韓国戦争(朝鮮戦争)についてはほとんど話さなかった。厳格に言うと、父は戦争に参加したのではなかった。22歳で徴兵された父は--第2次大戦の勃発で始まった英国の徴兵制度は1963年に終わった--砲兵連帯とともに休戦ラインの名前もよく知らないくぼみで1953年末から一年間、駐屯した。歴史の本はとても簡単に、そして無感情に「休戦以降の数カ月間、協定違反がしばしば発生した」と叙述している。父は感性的な人間ではないが、今も韓国で実際に起きていた“協定違反”が何か、思い出そうとしない。近づいてくる砲弾が周辺で爆発する時の恐ろしさについて語る。戦友が地に倒れて悲鳴をあげる中、それでも命令を遂行しなければならなかったと語る。戦友たちのためにできることはなかったと言った。人が多かったのですか、私は聞く。父は視線を外して主題を変える。
父はこのようなトラウマのせいで、私がせがまなければ韓国での記憶を思い出そうとする努力をしない。何年か前、父が偶然、韓国戦争について言及しなかったら、私は父が韓国にいた事実を知らなかっただろう。実際、このような反応は英国では普遍的だ。参戦者や1106人の戦死者を除けば、朝鮮戦争は第2次世界大戦の恐怖の中に埋もれてしまった。思い出すほどの恥ずかしい敗北でも、光栄な勝利でもなかった。英国軍が第2次世界大戦から帰還した時、人々は祝賀の旗を翻して祭りの雰囲気の中で歓迎したが、朝鮮戦争から帰ってきた英国軍兵士は人気の少ない鉄道の駅から家まで淋しく歩いて帰らなければならなかった。今日、朝鮮戦争について「それなら」と言ってすぐに話をしてくれる人は少ない。英国が米国に次いで多い8万1000人を派遣したにもかかわらず、だ。参戦軍人を記念する追悼碑も2014年12月になってようやくロンドンに設置された。それさえも韓国政府が費用を支払ってくれた賜物だ。(ありがとう、大韓民国!)
さらに、英国の朝鮮戦争参戦戦友会も解散した。2013年7月11日、私はウェストミンスター聖堂へ向かう彼らの最後のパレードを見に行った。参加者は皆老人であり、多くの戦友が亡くなっていた。これ以上参加者が減りゆくところをひたすら見守るよりも、かっこよく解散することに決めた。パレードはすぐ終わったが、数少ない老兵たちは立派な軍人のように見えた。
朝鮮戦争で最も有名な英国軍の戦功の一つはグロスター連帯の臨津江(イムジンガン)の防御戦だ。1951年4月グロスター連帯第1大隊600人余りは絶えず押し寄せてくる3万人以上の中国共産軍3個師団を相手に奮闘した。私は中国人参戦軍人から当時のことを聞くことができた。1978年北京で勉強していたある日の夕方、私は公園に座っていた。その時、年上の男性が近づいてきてどこからきたのかと聞いた。英国だと答えると、彼は韓国で英国軍と戦ったことがあると話した。
第63義勇軍に所属していたというこの男性は、グロスター連帯が絶えず発射していた機関銃やいつもお腹をすかせていたこと、後方から進撃の命令を出し続けていた上官、そして戦友の死について語ってくれた。その時には韓国に対する知識を全く持ち合わせていなかった私は、終電に乗るためにその場から立ち上がった。(中央SUNDAY第537号)
【コラム】第2次朝鮮戦争が起きたら…(2)
父はこのようなトラウマのせいで、私がせがまなければ韓国での記憶を思い出そうとする努力をしない。何年か前、父が偶然、韓国戦争について言及しなかったら、私は父が韓国にいた事実を知らなかっただろう。実際、このような反応は英国では普遍的だ。参戦者や1106人の戦死者を除けば、朝鮮戦争は第2次世界大戦の恐怖の中に埋もれてしまった。思い出すほどの恥ずかしい敗北でも、光栄な勝利でもなかった。英国軍が第2次世界大戦から帰還した時、人々は祝賀の旗を翻して祭りの雰囲気の中で歓迎したが、朝鮮戦争から帰ってきた英国軍兵士は人気の少ない鉄道の駅から家まで淋しく歩いて帰らなければならなかった。今日、朝鮮戦争について「それなら」と言ってすぐに話をしてくれる人は少ない。英国が米国に次いで多い8万1000人を派遣したにもかかわらず、だ。参戦軍人を記念する追悼碑も2014年12月になってようやくロンドンに設置された。それさえも韓国政府が費用を支払ってくれた賜物だ。(ありがとう、大韓民国!)
さらに、英国の朝鮮戦争参戦戦友会も解散した。2013年7月11日、私はウェストミンスター聖堂へ向かう彼らの最後のパレードを見に行った。参加者は皆老人であり、多くの戦友が亡くなっていた。これ以上参加者が減りゆくところをひたすら見守るよりも、かっこよく解散することに決めた。パレードはすぐ終わったが、数少ない老兵たちは立派な軍人のように見えた。
朝鮮戦争で最も有名な英国軍の戦功の一つはグロスター連帯の臨津江(イムジンガン)の防御戦だ。1951年4月グロスター連帯第1大隊600人余りは絶えず押し寄せてくる3万人以上の中国共産軍3個師団を相手に奮闘した。私は中国人参戦軍人から当時のことを聞くことができた。1978年北京で勉強していたある日の夕方、私は公園に座っていた。その時、年上の男性が近づいてきてどこからきたのかと聞いた。英国だと答えると、彼は韓国で英国軍と戦ったことがあると話した。
第63義勇軍に所属していたというこの男性は、グロスター連帯が絶えず発射していた機関銃やいつもお腹をすかせていたこと、後方から進撃の命令を出し続けていた上官、そして戦友の死について語ってくれた。その時には韓国に対する知識を全く持ち合わせていなかった私は、終電に乗るためにその場から立ち上がった。(中央SUNDAY第537号)
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