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<金正男毒殺>「毛沢東さえ世襲しない」批判後、金正恩委員長と葛藤深まる

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
「私が留学のため離れた後に私の異母弟の金正哲(キム・ジョンチョル)、金正恩(キム・ジョンウン)、金与正(キム・ヨジョン)が生まれ、父の愛情も彼らに傾いたようだ。私が完全に資本主義の青年に成長し、北朝鮮に戻った時から父は私を警戒したようだ。おそらく父の期待とは違っていたのだろう」(五味洋治著、『父・金正日と私 金正男独占告白』)

13日に死亡した金正男(キム・ジョンナム)氏は父の金正日(キム・ジョンイル)総書記から遠ざかっていく状況をこのように明らかにした。日本の言論人と2011年3月にやり取りしたメールでだ。「留学中、私はスイスのジュネーブにいて、兄弟はベルンにいた。お互い会ったことはない」という金正男氏の言葉に、同じ父を持ちながら後継権力をめぐり離れるしかなかった平壌(ピョンヤン)権力内部の冷酷さが表れている。このようなメールを書いてから9カ月後、金正日総書記が突然死去し、金正男氏は絶対権力を握った異母弟の金正恩委員長から警戒される状況になった。

金正男氏は金正日総書記と女優の成ヘ琳(ソン・ヘリム)氏の間に最初の息子として生まれた。人妻だった成ヘ琳氏に一目ぼれし、強制的に離婚までさせて一緒に暮らしながら得た息子だったため、格別の愛情を注いだという。出生当日の1971年5月10日の状況を成ヘ琳氏の姉・成ヘ琅(ソン・ヘラン)氏は亡命後に出した自叙伝でこのように記述している。「寝耳に自動車のクラクションが聞こえた。4階だった私の家の窓側に行くと、暗いところに大きな黒い乗用車が見えた。金正日書記だった。『いまヘ琳が息子を産んだ』と彼は話した。彼の顔には喜びが表れていた」。


しかし金正男氏は祖父の金日成(キム・イルソン)主席から存在を認められず、最高位層の治療施設である烽火診療所にも裏口からこっそり出入りしなければならなかった。さらに金正日総書記は金正男氏が生まれてから数年も経たないうちに北送在日同胞の舞踊家コ・ヨンヒ氏を愛して成ヘ琳氏を捨てた。成ヘ琳氏はモスクワで心臓病で苦しむなど憂うつな晩年を送り、2002年に死亡した。金正男氏は2001年5月、日本ディズニーランドを訪問するため偽造パスポートで入国しようとして成田空港で逮捕された。金正男氏の顔が公開され、国際的な恥になったのをきっかけに、金正日総書記の視野から完全に外れたという話が出た。

2008年夏に脳卒中で倒れて復帰した金正日総書記は後継を急いだ。金正日総書記の選択は三男の金正恩氏だった。国家安全保衛部を掌握した金正恩氏は2009年4月に平壌の金正男氏の拠点であるウアム閣を襲撃するなど去勢作業に入った。金正男氏は日本メディアのインタビューを通じて金正恩委員長を批判する発言をした。「中国では毛沢東さえも世襲をしなかった」と述べた。その後、中国や豪州で暗殺の動きがあった。金正男氏が韓国などに亡命するという話が出始めたのもこの頃だ。後見人だった叔母の夫の張成沢(チャン・ソンテク)氏が2013年12月、金正恩委員長によって無惨に処刑され、最後の防御の壁が崩れた。

金正男氏は弟との関係回復も図った。2011年1月の日本メディアのインタビューでは「弟が後継者として北朝鮮住民を豊かにすることを心から望む」とし「弟は私の誠意を理解できる度量の大きい人物だと信じる」と述べた。しかし金正男氏は「私の弟がこの言葉を誤解したり良くない感情を抱くなら、度量が小さい人物ということであり、私は非常に残念だ」とも語った。そしてこうした言葉は「悲運の皇太子」金正男氏が異母弟との永遠の決別を示唆する遺言となった。



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