2年前のシャルリー・エブド襲撃事件は表現の自由に関して世界的な論争を呼び起こした。表現の自由という原則と他者・少数者に対する嫌悪が共存できるかという問題だ。「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」というボルテールの言葉で代弁される表現の自由に制限論が出てきたということだ。もちろん意見は分かれた。フランス五月革命の後えいにふさわしく一切の権威に抵抗するシャルリー・エブドがキリスト教・イスラム教などすべての制度圏宗教の原理主義を対象にしただけという意見と、彼らが享受する表現の自由はフランスの少数者であるムスリムに向けた白人男性の侮辱という意見が対立した。
これに対する明確な正答はない。政治的な正しさに立脚して表現の自由は嫌悪の自由ではないという意見でまとまったが、それなら嫌悪の表現に対する制限と規制の基準は誰がどう決めるのかという問題は依然として残るからだ。
【コラム】政治的進歩、美学的進歩=韓国(2)
これに対する明確な正答はない。政治的な正しさに立脚して表現の自由は嫌悪の自由ではないという意見でまとまったが、それなら嫌悪の表現に対する制限と規制の基準は誰がどう決めるのかという問題は依然として残るからだ。
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