「今回持って来られなければ再び韓国の地を踏めなさそうでした」。
10月に日本で高麗仏画「水月観音図」を25億ウォン(約2億3548万円)で購入し国立中央博物館に寄贈した韓国コルマーの尹東漢(ユン・ドンハン)会長の話だ。2009年にパリのギメ美術館で水月観音図を初めて見た彼は、必ず韓国に持って来なければならないと考えた。当時キュレーターは「仏教芸術の傑作だが韓国の国立博物館にはない」と紹介した。それから7年間、尹会長は世界中を訪れ水月観音図を探した。今年初めに日本の個人が所蔵しているという情報を聞いて何回もの説得の末に買い取りに成功した。
企業家である尹会長の2番目の職業は「歴史守護人」だ。20年間余りにわたり韓国の歴史と文化を伝えるのに先導してきた。2006年にはその年初めて行われた韓国史能力検定試験の点数を新入社員採用時に反映し始めた。昨年124人を選抜した新入社員公開採用には9449人が志願したが、このうち韓国史試験資格証保有者は3000人を超えた。入社後2週間の新入社員教育は歴史教育と変わらない。教育最終日には李舜臣(イ・スンシン)の海戦ルートに沿って回り閑山島(ハンサンド)の制勝堂(チェスンダン)を参拝する。来年からは青年対象の李舜臣学校を運営するために金鍾大(キム・ジョンデ)元憲法裁判官らと組んで財団設立作業を進めている。
このように彼が「歴史守護活動」を始めたのは、幼い時期に果たせなかった夢のためだ。歴史学者を夢見た彼は大学入試を2カ月後に控え父親を亡くした。長男だったため母と幼い4人の弟たちの責任を負わなければならなかった。やむを得ずソウル大学歴史学科の代わりに嶺南(ヨンナム)大学経営学科に全額奨学金を受けて進学した。大学では毎晩工事現場で資材を守る警備の仕事をして生活費を稼いだ。
大学卒業後には農協に就職して安定した生活をすることができた。しかし人生の空虚さが感じられた。幼い時に彼が夢見た未来は「歴史学者」だったためだ。そのころ再び歴史の本を手に取った。暇を見つけては朝鮮王朝実録を読み、次は高麗史、そして三国の歴史書を通読した。歴史を学んだため職場生活には大いに役立った。30歳ごろに大熊製薬に転職した後はさらに勢いに乗った。40歳になる前にすべての生産ラインの責任を負う工場長になった。
ここで彼は黄海道谷山(ファンヘド・コクサン)の都護府使時代に兼済院(キョムジェウォン)を設立した茶山(タサン)からアイデアを得た。茶山は流刑で来た両班(ヤンバン)に寝床と食事を提供し、村の子どもたちに教えさせた。当時工場には食堂がなく従業員は弁当を持ってきたが従業員のうち半分は食事を抜いていた。彼は従業員に、昼食を無料で提供するので製品の不良率を減らしてほしいと提案した。実際に食堂ができると2%台に達していた不良率は0.5%に減った。尹会長は「流刑で来た両班の寝食を解決して上げ、村の子どもたちの教育に責任を負った茶山をまねただけ。歴史を見ればいまを生きる知恵が出てくる」と話した。
1989年に韓国コルマーを設立した時に日本コルマーの投資を受ける過程でも高麗時代の開城(ケソン)商人を例に挙げて契約を成功させた。27年が過ぎたいま、韓国コルマーは従業員2000人、年間売り上げ1兆ウォン台の企業に成長した。日本コルマーの3倍を超える規模だ。
「歴史経営」という哲学を基に尹会長は社員を教育する時も直接歴史講義をする。毎月出される社報にも自身が直接書いた歴史の話を連載する。対外的には2013年に大学修学能力試験で選択科目だった韓国史を必須化しようという「韓国史守護100万署名運動」を主導した。そのうち韓国コルマーの社内では歴史専門家にならなければ役員になれないという話も出てきた。実際にすべての役員社員は1年に6冊の本を読み読書感想文を提出しなくてはならず、このうち半分以上が歴史関連書籍だ。2009年からは尹会長をはじめ、すべての役員社員が12週間にわたり週末ごとに智異山(チリサン)を1周する散策路240キロメートルを一緒に歩く歴史探訪をしている。
「歴史守護人」としての次の目標は歴史を通じて若者に自負心を植え付けることだ。最近では歴史研究を本格的に支援するための財団を設立した。三顧の礼の末に李泰鎮(イ・テジン)元国史編纂委員長を歴史研究所所長に迎えた。尹会長は「碧瀾渡(ピョクランド)を通じて世界に進出していった開城商人の気質のように青年が夢を広げられる世の中を作るよう努力する」と話した。
10月に日本で高麗仏画「水月観音図」を25億ウォン(約2億3548万円)で購入し国立中央博物館に寄贈した韓国コルマーの尹東漢(ユン・ドンハン)会長の話だ。2009年にパリのギメ美術館で水月観音図を初めて見た彼は、必ず韓国に持って来なければならないと考えた。当時キュレーターは「仏教芸術の傑作だが韓国の国立博物館にはない」と紹介した。それから7年間、尹会長は世界中を訪れ水月観音図を探した。今年初めに日本の個人が所蔵しているという情報を聞いて何回もの説得の末に買い取りに成功した。
企業家である尹会長の2番目の職業は「歴史守護人」だ。20年間余りにわたり韓国の歴史と文化を伝えるのに先導してきた。2006年にはその年初めて行われた韓国史能力検定試験の点数を新入社員採用時に反映し始めた。昨年124人を選抜した新入社員公開採用には9449人が志願したが、このうち韓国史試験資格証保有者は3000人を超えた。入社後2週間の新入社員教育は歴史教育と変わらない。教育最終日には李舜臣(イ・スンシン)の海戦ルートに沿って回り閑山島(ハンサンド)の制勝堂(チェスンダン)を参拝する。来年からは青年対象の李舜臣学校を運営するために金鍾大(キム・ジョンデ)元憲法裁判官らと組んで財団設立作業を進めている。
このように彼が「歴史守護活動」を始めたのは、幼い時期に果たせなかった夢のためだ。歴史学者を夢見た彼は大学入試を2カ月後に控え父親を亡くした。長男だったため母と幼い4人の弟たちの責任を負わなければならなかった。やむを得ずソウル大学歴史学科の代わりに嶺南(ヨンナム)大学経営学科に全額奨学金を受けて進学した。大学では毎晩工事現場で資材を守る警備の仕事をして生活費を稼いだ。
大学卒業後には農協に就職して安定した生活をすることができた。しかし人生の空虚さが感じられた。幼い時に彼が夢見た未来は「歴史学者」だったためだ。そのころ再び歴史の本を手に取った。暇を見つけては朝鮮王朝実録を読み、次は高麗史、そして三国の歴史書を通読した。歴史を学んだため職場生活には大いに役立った。30歳ごろに大熊製薬に転職した後はさらに勢いに乗った。40歳になる前にすべての生産ラインの責任を負う工場長になった。
ここで彼は黄海道谷山(ファンヘド・コクサン)の都護府使時代に兼済院(キョムジェウォン)を設立した茶山(タサン)からアイデアを得た。茶山は流刑で来た両班(ヤンバン)に寝床と食事を提供し、村の子どもたちに教えさせた。当時工場には食堂がなく従業員は弁当を持ってきたが従業員のうち半分は食事を抜いていた。彼は従業員に、昼食を無料で提供するので製品の不良率を減らしてほしいと提案した。実際に食堂ができると2%台に達していた不良率は0.5%に減った。尹会長は「流刑で来た両班の寝食を解決して上げ、村の子どもたちの教育に責任を負った茶山をまねただけ。歴史を見ればいまを生きる知恵が出てくる」と話した。
1989年に韓国コルマーを設立した時に日本コルマーの投資を受ける過程でも高麗時代の開城(ケソン)商人を例に挙げて契約を成功させた。27年が過ぎたいま、韓国コルマーは従業員2000人、年間売り上げ1兆ウォン台の企業に成長した。日本コルマーの3倍を超える規模だ。
「歴史経営」という哲学を基に尹会長は社員を教育する時も直接歴史講義をする。毎月出される社報にも自身が直接書いた歴史の話を連載する。対外的には2013年に大学修学能力試験で選択科目だった韓国史を必須化しようという「韓国史守護100万署名運動」を主導した。そのうち韓国コルマーの社内では歴史専門家にならなければ役員になれないという話も出てきた。実際にすべての役員社員は1年に6冊の本を読み読書感想文を提出しなくてはならず、このうち半分以上が歴史関連書籍だ。2009年からは尹会長をはじめ、すべての役員社員が12週間にわたり週末ごとに智異山(チリサン)を1周する散策路240キロメートルを一緒に歩く歴史探訪をしている。
「歴史守護人」としての次の目標は歴史を通じて若者に自負心を植え付けることだ。最近では歴史研究を本格的に支援するための財団を設立した。三顧の礼の末に李泰鎮(イ・テジン)元国史編纂委員長を歴史研究所所長に迎えた。尹会長は「碧瀾渡(ピョクランド)を通じて世界に進出していった開城商人の気質のように青年が夢を広げられる世の中を作るよう努力する」と話した。
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