かつて朴槿恵(パク・クネ)大統領の「秘線」として知られたチョン・ユンフェ氏(62)が「崔順実(チェ・スンシル)事態」と関して口を開いた。チョン氏は7、10、11月の3回にわたる『月刊中央』との70分間の電話で「すべて忘れて田舎に来た」としながらも、崔容疑者との離婚は朴大統領を補佐する方法論をめぐる意見の違いのためだったと明らかにした。電話ではずっと朴大統領を「その方」と呼んだ。チョン氏は、1970年代に朴大統領とともに救国奉仕団を率いた崔太敏(チェ・テミン)氏の娘、崔順実容疑者と95年に結婚した。98年の大邱(テグ)達城(タルソン)国会議員補欠選挙で朴大統領を支援し、青瓦台(チョンワデ、大統領府)「門番3人組」のうち李在万(イ・ジェマン)前総務秘書官(50)、チョン・ホソン前付属秘書官(47)を自ら選んだ。
--どのように過ごしているのか。
「家の前に取材陣が集まり、家に戻れなくなって数週間過ぎた。今は静かに頭を冷やすところに来ている」
--2014年に崔順実と離婚した後、江原道(カンウォンド)に行ったと聞いた。
「私が静かに過ごすのはほかでもない。その方がうまく終えなければ、私も後に認められないだろう。それに以前も話したように周辺に敵ばかりいる。それですべて整理して田舎に来た」
--崔順実が検察の捜査を受けている。助けたいとは思わないのか。
「助けられることがあるだろうか。私が何か少しでも知っていれば助けることができるだろうが。私は本当にかなり以前に手を切った問題だ」
--配偶者だったが、心が痛むのでは。
「話したくない。忠臣と奸臣は紙一重の差だ。生きていれば基本を失う時がある。基本に忠実なら大きく失敗することはない。とにかく現在としては(崔順実が)捜査を誠実に受けることが重要だ」
--梨花女子大入学の件などで一人娘のユラ氏まで俎上に載せられている
「どうにもならない。遅くなったが今からでも正すしかないのでは。隠すことができると考えれば誤算だ。以前ならまだしも、最近は世の中が変わって不可能だ」
--崔順実の国政壟断にチョン・ユンフェ氏も無関係ではないという見方もある。
「結婚して一緒に暮らしたのでそう疑うかもしれない。しかし離婚の後、私は隠すことはない。崔順実とは線を引いていて何もない。私に問題があるのなら一度持ってくればよい」
--野党3党は崔順実ゲートに対する特別検察官導入に関し、2014年11月の「チョン・ユンフェ文書波紋」も捜査対象に含めることを検討している。
「その件と関しては隠すことも隠さなければいけないこともない。ただ、その方がうまくいくように願ってちっ居しているだけだが、他の人たちは私にあたかも何か罪があり隠れて過ごしていると疑っているようだ。何よりも元妻とはずっと関連がなく、知っていることもない。ただ自分の業報だと考えている」
--「大統領は下野するべきだ」という言葉も出てくる。
「誰よりも残念に思っているのが私だろう。その方が最初に政界に入る時から一緒に仕事をした。その時は補佐陣が私一人だった。その方の心的苦痛をそばで黙々と見守りながら死む覚悟で支えた」
--朴大統領をどのように補佐したのか。
「事業などの夢もあり、そのような年齢にその方を助けることを決心したのにはいくつか理由があった。当時は朴大統領を補佐する人が私一人しかいなかった。当時は金大中(キム・デジュン)政権時代であり、その方のそばにいればみんな死ぬと考えていた。しかし男としてこのような考えになった。『これはひど過ぎる。弱い女性なのにここまでしてもよいのか』。それで当時、厳三鐸(オム・サムタク)氏(98年の大邱達城選挙出馬候補)氏と2回ぶつかった。運転する友人と2人で訪ねて談判した」
--そのような忠誠が生じた特別な理由があるか。
「私の性格がそうだ。弱い女性を見ると守ってあげたいと…。当時、その方に対する社会的な偏見が多かった。昔の父(朴正熙元大統領)の問題がその方を苦しめた。それを見守りながらある種の公明心が生じた。その心一つで忠誠を尽くした」
--当時、朴大統領をどのように支えたのか。
「私は少なくとも仕事をする時は朴大統領に直言した。それで周囲の職員はそのような状況を非常に気まずく感じていた。それほど違うものは違うと伝えて正直に仕事をした。率直にいま私が持っている財産と言えば…」
--いま財産はそれほどないのか。
「意味のない話なのでやめよう。今はこうだが、過去を振り返れば男としてよく暮らしたのではないだろうか。私が補佐した時は一度も法的な雑音や今のように奈落に落ちたことはなかった」
--本人のノウハウがあるか。
「その方を補佐する前に大韓航空で10年間勤務したが、当時も問題はなかった。自分がする仕事に対しては仕損じるまいと絶えず努力した。特に朴大統領を補佐した時は言うまでもない。今でも不眠症のために眠れない。過去には午前3時前に寝たことがない」
--結婚生活でも崔順実は度が過ぎる行為をしたのか。
「私がいる時はそのような問題が全くなかった。私の前ではそんなことはあり得なかった、構造上…。何より私の性格でそのようなことは認められない。今のように雑音が出てくることになったのは離婚の後(崔順実を)まともに管理できなかった私の手落ちだ」
--離婚はなぜしたのか。
「男女が離婚する理由が他にあるだろうか…。(沈黙)お互いよく思っているのに別れたといえば嘘だ。離婚した当時、いろいろと複合的な理由があった」
--朴大統領を補佐するうえで意見の違いがあったのが離婚の理由という話もある。
「そのような理由もあった。その方を補佐するスタイルがかなり違った」
--朴大統領から信頼される姿を見て崔順実が嫉妬したという噂は事実か。
「そういうものもあった。草創期から『そこ』に身を置いている時は、とにかく…私に嫉妬することはあった」
--「青瓦台文書」波紋当時に一線から突然押し出されたという説がある。
「悔しいことはない、悔しいことがあるのなら法に抵触したり何か問題があったはずだ。話す言葉は多いが、いま乗り出せばその方に迷惑をかけること考える。夕立ちが終わって晴れればゆっくりと過去のことを話したい。(検察で)結論が出てこそ話す言葉も言うものだ。いつかは話す日がくるだろう。話したいことは多い」
チョン・ユンフェ氏は「最近『嫌われる勇気』という本を読んでいる」と話した。また「振り返ってみると私はこれまでドンキホーテのような生活を送った」とし「大統領が(検察の)捜査を受けるのは不可能なことだ。最近の世の中に秘密などどこにあるだろうか。結果に責任を負うべき部分があれば責任を負えばよい」と述べた。
※インタビュー全文は18日発行の『月刊中央』12月号に掲載。
--どのように過ごしているのか。
「家の前に取材陣が集まり、家に戻れなくなって数週間過ぎた。今は静かに頭を冷やすところに来ている」
--2014年に崔順実と離婚した後、江原道(カンウォンド)に行ったと聞いた。
「私が静かに過ごすのはほかでもない。その方がうまく終えなければ、私も後に認められないだろう。それに以前も話したように周辺に敵ばかりいる。それですべて整理して田舎に来た」
--崔順実が検察の捜査を受けている。助けたいとは思わないのか。
「助けられることがあるだろうか。私が何か少しでも知っていれば助けることができるだろうが。私は本当にかなり以前に手を切った問題だ」
--配偶者だったが、心が痛むのでは。
「話したくない。忠臣と奸臣は紙一重の差だ。生きていれば基本を失う時がある。基本に忠実なら大きく失敗することはない。とにかく現在としては(崔順実が)捜査を誠実に受けることが重要だ」
--梨花女子大入学の件などで一人娘のユラ氏まで俎上に載せられている
「どうにもならない。遅くなったが今からでも正すしかないのでは。隠すことができると考えれば誤算だ。以前ならまだしも、最近は世の中が変わって不可能だ」
--崔順実の国政壟断にチョン・ユンフェ氏も無関係ではないという見方もある。
「結婚して一緒に暮らしたのでそう疑うかもしれない。しかし離婚の後、私は隠すことはない。崔順実とは線を引いていて何もない。私に問題があるのなら一度持ってくればよい」
--野党3党は崔順実ゲートに対する特別検察官導入に関し、2014年11月の「チョン・ユンフェ文書波紋」も捜査対象に含めることを検討している。
「その件と関しては隠すことも隠さなければいけないこともない。ただ、その方がうまくいくように願ってちっ居しているだけだが、他の人たちは私にあたかも何か罪があり隠れて過ごしていると疑っているようだ。何よりも元妻とはずっと関連がなく、知っていることもない。ただ自分の業報だと考えている」
--「大統領は下野するべきだ」という言葉も出てくる。
「誰よりも残念に思っているのが私だろう。その方が最初に政界に入る時から一緒に仕事をした。その時は補佐陣が私一人だった。その方の心的苦痛をそばで黙々と見守りながら死む覚悟で支えた」
--朴大統領をどのように補佐したのか。
「事業などの夢もあり、そのような年齢にその方を助けることを決心したのにはいくつか理由があった。当時は朴大統領を補佐する人が私一人しかいなかった。当時は金大中(キム・デジュン)政権時代であり、その方のそばにいればみんな死ぬと考えていた。しかし男としてこのような考えになった。『これはひど過ぎる。弱い女性なのにここまでしてもよいのか』。それで当時、厳三鐸(オム・サムタク)氏(98年の大邱達城選挙出馬候補)氏と2回ぶつかった。運転する友人と2人で訪ねて談判した」
--そのような忠誠が生じた特別な理由があるか。
「私の性格がそうだ。弱い女性を見ると守ってあげたいと…。当時、その方に対する社会的な偏見が多かった。昔の父(朴正熙元大統領)の問題がその方を苦しめた。それを見守りながらある種の公明心が生じた。その心一つで忠誠を尽くした」
--当時、朴大統領をどのように支えたのか。
「私は少なくとも仕事をする時は朴大統領に直言した。それで周囲の職員はそのような状況を非常に気まずく感じていた。それほど違うものは違うと伝えて正直に仕事をした。率直にいま私が持っている財産と言えば…」
--いま財産はそれほどないのか。
「意味のない話なのでやめよう。今はこうだが、過去を振り返れば男としてよく暮らしたのではないだろうか。私が補佐した時は一度も法的な雑音や今のように奈落に落ちたことはなかった」
--本人のノウハウがあるか。
「その方を補佐する前に大韓航空で10年間勤務したが、当時も問題はなかった。自分がする仕事に対しては仕損じるまいと絶えず努力した。特に朴大統領を補佐した時は言うまでもない。今でも不眠症のために眠れない。過去には午前3時前に寝たことがない」
--結婚生活でも崔順実は度が過ぎる行為をしたのか。
「私がいる時はそのような問題が全くなかった。私の前ではそんなことはあり得なかった、構造上…。何より私の性格でそのようなことは認められない。今のように雑音が出てくることになったのは離婚の後(崔順実を)まともに管理できなかった私の手落ちだ」
--離婚はなぜしたのか。
「男女が離婚する理由が他にあるだろうか…。(沈黙)お互いよく思っているのに別れたといえば嘘だ。離婚した当時、いろいろと複合的な理由があった」
--朴大統領を補佐するうえで意見の違いがあったのが離婚の理由という話もある。
「そのような理由もあった。その方を補佐するスタイルがかなり違った」
--朴大統領から信頼される姿を見て崔順実が嫉妬したという噂は事実か。
「そういうものもあった。草創期から『そこ』に身を置いている時は、とにかく…私に嫉妬することはあった」
--「青瓦台文書」波紋当時に一線から突然押し出されたという説がある。
「悔しいことはない、悔しいことがあるのなら法に抵触したり何か問題があったはずだ。話す言葉は多いが、いま乗り出せばその方に迷惑をかけること考える。夕立ちが終わって晴れればゆっくりと過去のことを話したい。(検察で)結論が出てこそ話す言葉も言うものだ。いつかは話す日がくるだろう。話したいことは多い」
チョン・ユンフェ氏は「最近『嫌われる勇気』という本を読んでいる」と話した。また「振り返ってみると私はこれまでドンキホーテのような生活を送った」とし「大統領が(検察の)捜査を受けるのは不可能なことだ。最近の世の中に秘密などどこにあるだろうか。結果に責任を負うべき部分があれば責任を負えばよい」と述べた。
※インタビュー全文は18日発行の『月刊中央』12月号に掲載。
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