1995年6月14日、日本首相官邸。村山内閣の五十嵐孝三官房長官が旧日本軍慰安婦問題の解決のための政府の計画を発表した。「女性のためのアジア平和友好基金(女性のためのアジア平和国民基金に改称)」発足と事業内訳を盛り込んだものだった。事業は大きく4つだった。
1.元従軍慰安婦への償い金を民間から基金が募金する。
2.元従軍慰安婦に対する医療、福祉支援事業を、政府の資金で基金が行う。
3.この事業実施にあたり、政府が元従軍慰安婦に国としての率直な反省とおわびの気持ちを表明する。
4.政府は、過去の従軍慰安婦の歴史資料を整え歴史の教訓とする。
この計画は村山社会党党首が首相だったために可能だったという評価だ。当時は社会党・自民党・新党さきがけの連立政権だった。女性基金は、村山首相が94年8月に慰安婦問題に対する反省とおわびを表明し、国民参加の道を探るという談話の結果だった。慰安婦補償が政府の予算でなく民間募金額に決定されたのは自民党の右派と官僚の反発のためだった。戦後の賠償と補償はサンフランシスコ講和条約と韓日請求権協定で終結したという立場は当時も今も変わらない。
基金の発起人は16人だった。三木武夫元首相夫人の三木睦子氏をはじめとする女性界、東京大の和田春樹・大沼保昭教授ら戦後補償運動の関係者、須野部量三元駐韓国大使など各界の人物が網羅された。人選に関しては大沼教授らが五十嵐官房長官・内閣外征審議室と協議を繰り返したという。女性基金は95年7月、発起人会議と理事会を経て公式発足した。発表から1カ月後だ。2007年に解散した基金の募金額は約6億円、政府の拠出・補助金は約48億円だった。基金は韓国・フィリピン・台湾・オランダ・インドネシア5カ国の被害者を相手に補償事業をした。韓国の被害者には募金額で充当する償い(贖罪)金1人あたり200万円と首相の謝罪書簡が伝えられた。日本政府の拠出で1人あたり300万円規模の医療福祉事業も実施された。基金の支援を受けた韓国の被害者は61人と把握される。
「慰安婦財団、韓日の団体が力を合わせ共同運営を」(2)
1.元従軍慰安婦への償い金を民間から基金が募金する。
2.元従軍慰安婦に対する医療、福祉支援事業を、政府の資金で基金が行う。
3.この事業実施にあたり、政府が元従軍慰安婦に国としての率直な反省とおわびの気持ちを表明する。
4.政府は、過去の従軍慰安婦の歴史資料を整え歴史の教訓とする。
この計画は村山社会党党首が首相だったために可能だったという評価だ。当時は社会党・自民党・新党さきがけの連立政権だった。女性基金は、村山首相が94年8月に慰安婦問題に対する反省とおわびを表明し、国民参加の道を探るという談話の結果だった。慰安婦補償が政府の予算でなく民間募金額に決定されたのは自民党の右派と官僚の反発のためだった。戦後の賠償と補償はサンフランシスコ講和条約と韓日請求権協定で終結したという立場は当時も今も変わらない。
基金の発起人は16人だった。三木武夫元首相夫人の三木睦子氏をはじめとする女性界、東京大の和田春樹・大沼保昭教授ら戦後補償運動の関係者、須野部量三元駐韓国大使など各界の人物が網羅された。人選に関しては大沼教授らが五十嵐官房長官・内閣外征審議室と協議を繰り返したという。女性基金は95年7月、発起人会議と理事会を経て公式発足した。発表から1カ月後だ。2007年に解散した基金の募金額は約6億円、政府の拠出・補助金は約48億円だった。基金は韓国・フィリピン・台湾・オランダ・インドネシア5カ国の被害者を相手に補償事業をした。韓国の被害者には募金額で充当する償い(贖罪)金1人あたり200万円と首相の謝罪書簡が伝えられた。日本政府の拠出で1人あたり300万円規模の医療福祉事業も実施された。基金の支援を受けた韓国の被害者は61人と把握される。
「慰安婦財団、韓日の団体が力を合わせ共同運営を」(2)
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