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<栄辱の韓日戦半世紀>(中)野球…日本と戦いながら強くなった韓国(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

1912年YMCA-早稲田大、初の遠征韓日戦(0-23敗)。YMCA野球団の様子。日本にわたり早稲田大学野球部と韓日戦を行った。

韓国野球は日本と戦いながら成長した。1950年代から始まった対戦で数え切れないほど負けたのは当然だった。日本は1870年に野球を始め、1936年にプロ野球をスタートさせた。一方、韓国に野球が入ったのは1904年であり、1960年代まで「草野球」から抜け出せなかった。先に野球を始めた日本は国際競争力を高めて発展し、韓国は日本を目標にして急成長した。

野球の韓日戦の始まりは皇城キリスト教青年会(YMCA)の日本遠征だった。朝鮮最強だったYMCA野球団は京城のすべての日本人チームに勝った後、1912年11月に日本に渡った。韓国スポーツ史上初めての日本遠征だった。朝鮮野球史は「日本を征服するという決心で選手の血が沸くようだった」と表現している。

日本遠征は日本の野球専門誌、月刊『野球界』1912年12月号に詳細に紹介された。ホン・スンイル野球博物館資料収集委員会委員長が所蔵する『野球界』の写本によると、最初の韓日戦は観客満員の早稲田戸塚球場で行われた。YMCA野球団は日本最強の早稲田大学との試合で0-23で敗れた。その後、高校・大学チームと対戦し、1勝5敗1分けだった。


韓日戦がまた始まったのは解放と韓国戦争(朝鮮戦争)の後だった。韓国は1954年から62年までアジア野球選手権で日本と7回対戦し、すべて敗れた。59年には1-20で惨敗した。

韓日戦は63年に転機を迎えた。今はなき東大門球場で行われた第5回アジア選手権で日本に連勝して優勝したのだ。当時、陸軍経理団所属「一等兵」の金応竜(キム・ウンヨン)は、日本との第2戦で1-0とリードしていた8回に2点本塁打を放ち、3-0の勝利に貢献した。大会の直後、朴正熙(パク・ジョンヒ)最高会議議長は選手団を招待した席で「照明塔設置」を約束した。金応竜は「日本戦になると前日夜に先輩たちが訪ねてきて『絶対に勝て』と発破をかけた」と振り返った。その後、韓国はアマチュア大会で日本のライバルになった。

82年の第27回世界野球選手権は韓国で開催された。崔東原(チェ・ドンウォン)、金始真(キム・シジン)、金在博(キム・ジェバク)、任昊均(イム・ホギュン)などプロ入りまで先に延ばして大会に出場した。リーグ戦でともに7勝1敗の韓国と日本は最終戦でぶつかった。大会を控えて日本文部省が歴史教科書歪曲問題を起こし、韓日関係は最悪だった。

韓国は7回まで0-2とリードを許していたが、8回に金正洙(キム・ジョンス)の二塁打で1点差に追い上げた。犠牲バントで作った一死三塁の場面で、金在博(キム・ジェバク)がかの有名な「カエルバント」を成功させた。日本バッテリーがスクイズバントを予想して外したが、ぴょんと跳んでバントを決め、同点にしたのだ。後に金在博は「魚友洪(オ・ウホン)監督はサインミスだと話したが、私が状況判断をした」と語った。続いて韓国はイ・ヘチャンの安打で一死一、三塁のチャンスを作った。次の韓大化(ハン・デファ)はフルカウントからのボールをとらえて引っ張った。左翼ポールに当たって落ちる逆転3ラン。今でも韓日戦の最高の瞬間に挙げられる場面だ。韓国は5-2で勝ち、世界選手権で優勝した。韓大化は「当時はタクシーに乗っても、店に行ってもみんなただになった。通行人から小遣いも受けた」と振り返った。



<栄辱の韓日戦半世紀>(中)野球…日本と戦いながら強くなった韓国(2)

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