「波が押し寄せては引いていき、行き来する船がお互いつながる。朝ここを出発すれば、一日足らずで南蛮(現中国とベトナム境界地域)に着く」(李奎報の『東国李相国集』)
高麗開京の国際港である碧瀾渡に宋の船が入ってくる日、一帯は数千の人波で埋まった。李奎報の詩句のように、漁船と官選(漕運船)、外国商船が並び、船着場の間をつなぐ船橋が形成されたりした。1014年(顕宗3年)から1278年(忠烈王4年)まで計120回ほど、約5000人の宋の人々が入国した。契丹と女真、日本、アラビアの人々が出入りし、世界に「コレア(コリア)」という名前を知らせた。
8日、江華島(カンファド)最北端の平和展望台から碧瀾渡(ビョクランド)跡を眺めた。3時方向から9時方向まで遮るものは何もない。清明な北側の空の下の遠くに開京の松岳山(ソンアクサン)が見えた。南北を遮るものは水とその真ん中の軍事境界線だけだった。その水は川でも海でもない。合流した漢江(ハンガン)と臨津江(イムジンガン)は江華島と金浦(キンポ)半島の間を流れて礼成江(イェソンガン)を抱く。満ち潮と引き潮を繰り返しながらお互いを包容し、最後には海に流れる。まさに「碧瀾渡」だ。
この日、江華島に同行した高麗史研究の権威者パク・ジョンギ国民大教授が北側を指した。「漢江・臨津江・礼成江が会って海につながるあそこが碧瀾渡。華やかな文化遺産の花を咲かせ、高麗が世界を抱いたところだ」。碧瀾渡がアジアの代表的な貿易港となったのは特有の開放・多文化精神のためだった。碧瀾渡には宋、契丹をはじめ、アラビアの商人までが出入りし、開城を国際都市にした。流入した外国文物は高麗の精神が込められて再創造され、これはまたシルクロードにつながった。
碧瀾渡は魅力国家の必須要件を幅広く備えた「古い未来」だ。中央日報と慶煕大の共同調査で一般市民と国会議員・閣僚・最高経営責任者(CEO)、外国大使・学者が選んだ魅力国家の核心条件は寛容・開放の精神だった。慶煕大のチョン・ジンヨン副総長(国際関係学)は「17世紀のオランダも寛容・開放の理念をもとに多くの人材と文化を受け入れ、魅力国家に浮上した。碧瀾渡が成功した開放政策の代表事例」と述べた。
このように高麗はオランダより数百年も先に魅力国家となった。宋の使節の一人として高麗に来た中国人の徐兢の見聞記『高麗図経』によると、当時の開城には華麗な邸宅が並び、外国人専用宿舎もいくつかあった。女性はもちろん男性もシルクで美しく飾った。油・紙・馬・豚の市場がそれぞれあるほど商業が発達していた。
パク教授は「国号を高麗(優れた美しさ)とした太祖王建は言葉の意味のように『優れた美しさ』を持つ国にすることを望んだ。さまざまな人材と文物を迎え入れ、高麗の文物は名品ブランドになった」と述べた。実際、高麗青磁・八万大蔵経・金属活字・高麗韓紙・螺鈿漆器・高麗仏画などはアラビアまで伝播した。
「魅力高麗」を可能にした核心要因の一つは開放的な人材政策だった。1451年の鄭麟趾(チョン・インジ)の『高麗史』によると、光宗は後周の試大理評事(国家試験を管理する責任者)の雙冀を迎え、科挙制を実施するなど、積極的に外国人を登用した。パク教授は「要職を引き受けた中国人だけで40人を超え、モンゴル・アラブ人も国政に参加した。帰化した一般外国人だけでも人口全体の8.5%にのぼるほど多文化社会だった」と説明した。高麗の恭愍王時代、李斉賢(イ・ジェヒョン)は『史略』で「光宗の開放・改革政策で高麗の文物は中国に劣らなかった」と評価した。
チョン・ジョンピル慶煕大未来文明院長は「魅力コリアを作るためには人種差別につながりかねない単一民族の神話から捨てるべき」とし「開放・寛容の精神に立脚した多文化の感受性を育てよう」と提案した。
高麗開京の国際港である碧瀾渡に宋の船が入ってくる日、一帯は数千の人波で埋まった。李奎報の詩句のように、漁船と官選(漕運船)、外国商船が並び、船着場の間をつなぐ船橋が形成されたりした。1014年(顕宗3年)から1278年(忠烈王4年)まで計120回ほど、約5000人の宋の人々が入国した。契丹と女真、日本、アラビアの人々が出入りし、世界に「コレア(コリア)」という名前を知らせた。
8日、江華島(カンファド)最北端の平和展望台から碧瀾渡(ビョクランド)跡を眺めた。3時方向から9時方向まで遮るものは何もない。清明な北側の空の下の遠くに開京の松岳山(ソンアクサン)が見えた。南北を遮るものは水とその真ん中の軍事境界線だけだった。その水は川でも海でもない。合流した漢江(ハンガン)と臨津江(イムジンガン)は江華島と金浦(キンポ)半島の間を流れて礼成江(イェソンガン)を抱く。満ち潮と引き潮を繰り返しながらお互いを包容し、最後には海に流れる。まさに「碧瀾渡」だ。
この日、江華島に同行した高麗史研究の権威者パク・ジョンギ国民大教授が北側を指した。「漢江・臨津江・礼成江が会って海につながるあそこが碧瀾渡。華やかな文化遺産の花を咲かせ、高麗が世界を抱いたところだ」。碧瀾渡がアジアの代表的な貿易港となったのは特有の開放・多文化精神のためだった。碧瀾渡には宋、契丹をはじめ、アラビアの商人までが出入りし、開城を国際都市にした。流入した外国文物は高麗の精神が込められて再創造され、これはまたシルクロードにつながった。
碧瀾渡は魅力国家の必須要件を幅広く備えた「古い未来」だ。中央日報と慶煕大の共同調査で一般市民と国会議員・閣僚・最高経営責任者(CEO)、外国大使・学者が選んだ魅力国家の核心条件は寛容・開放の精神だった。慶煕大のチョン・ジンヨン副総長(国際関係学)は「17世紀のオランダも寛容・開放の理念をもとに多くの人材と文化を受け入れ、魅力国家に浮上した。碧瀾渡が成功した開放政策の代表事例」と述べた。
このように高麗はオランダより数百年も先に魅力国家となった。宋の使節の一人として高麗に来た中国人の徐兢の見聞記『高麗図経』によると、当時の開城には華麗な邸宅が並び、外国人専用宿舎もいくつかあった。女性はもちろん男性もシルクで美しく飾った。油・紙・馬・豚の市場がそれぞれあるほど商業が発達していた。
パク教授は「国号を高麗(優れた美しさ)とした太祖王建は言葉の意味のように『優れた美しさ』を持つ国にすることを望んだ。さまざまな人材と文物を迎え入れ、高麗の文物は名品ブランドになった」と述べた。実際、高麗青磁・八万大蔵経・金属活字・高麗韓紙・螺鈿漆器・高麗仏画などはアラビアまで伝播した。
「魅力高麗」を可能にした核心要因の一つは開放的な人材政策だった。1451年の鄭麟趾(チョン・インジ)の『高麗史』によると、光宗は後周の試大理評事(国家試験を管理する責任者)の雙冀を迎え、科挙制を実施するなど、積極的に外国人を登用した。パク教授は「要職を引き受けた中国人だけで40人を超え、モンゴル・アラブ人も国政に参加した。帰化した一般外国人だけでも人口全体の8.5%にのぼるほど多文化社会だった」と説明した。高麗の恭愍王時代、李斉賢(イ・ジェヒョン)は『史略』で「光宗の開放・改革政策で高麗の文物は中国に劣らなかった」と評価した。
チョン・ジョンピル慶煕大未来文明院長は「魅力コリアを作るためには人種差別につながりかねない単一民族の神話から捨てるべき」とし「開放・寛容の精神に立脚した多文化の感受性を育てよう」と提案した。
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