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<慰安婦生存者13人証言>おばあさんの花札(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

パク・ピルグンさんは「孤独」という言葉をたびたび口にする。山奥の小さな村なので近所の人もあまりいない。この頃おばあさんは村役場からプレゼントされた歩行補助器を押しながら通り過ぎる車の見物をしたりする。

「教えてどうするのか。絶対に言わない。何も教えない。苦労したと分かっても、どれだけ苦労したか分かるはずがない。孫たちや今前にいる人々も、誰も分からないだろう。何のために知らせるのか。嘲笑されるようなものだ。何も良いことなどない。絶対に教えない」。

パク・ピルグンさん(88)は手を振って「嘲笑される」という言葉を繰り返した。おばあさんは悲しい話をあまりしない。特に慰安婦として連れていかれ苦難にあった記憶は言い出すことさえ極度に敬遠する。あまりにも長い歳月が流れたが、思い出させること自体が苦しく、ひょっとして家族を傷つけないかと怖いからだ。おばあさんは眉をひそめて話した。

「母が畑仕事に出て行って大人たちは誰もいないのに、誰かが家の前に来た。無理やり車に乗せて行かれ、どこかも分からない。その時は日本なのかも何も分からなかった。村で育って、誰が連れていくのかも分からなかった。男たちがいた。軍服を着た日本の男…」。


おばあさんは残酷な慰安所生活を「苦労」という一言で表現した。「苦労したことを言葉ですべて言えない。どれほどひどい男たちか…そうやって捕まえられて私たちの父が私のために早くに亡くなってしまわれた。私を心配したために」。

解放後、故郷に戻ったおばあさんは町内の未婚の男性に会って結婚したが、ほどなく1人になった。夫は、おばあさんが40歳になる前に名前を別にした。その後おばあさんは1人で2人の子供を育てた。おばあさんが生まれて今まで暮らしている所は慶尚北道浦項市竹長面(キョンサンブクド・ポハンシ・チュクチャンミョン)の山奥だ。とくに働くような場所がなかった。おばあさんはほかの家の農作業を手伝って労賃をもらいながら子供たちを育てた。間借り生活も長かった。

パクさんは「他人の家で部屋1つもらって暮らしていた。婚入り暮らしをするならまだしも間借り生活はできない。悲しみもたくさん受けて、口もきけずに(言葉にもならず)暮らしてきた。とても暮らせない、生きられない」と話していた。労賃で日々を何とか生きた。

今は子供たちが成長し、おばあさんの家もできた。小さな田舎の家だが、これ以上ない「くつろぎの場所」だ。おばあさんは今でも60代の娘、50代の息子と離れ、1人で田舎の家で菜園にトウモロコシ・唐辛子・ゴマなどを育てて生活している。おばあさんはまだほかの慰安婦被害者のおばあさんたちに比べ元気で記憶も鮮やかだ。村役場からプレゼントされた歩行補助器を使って近所を散歩し、菜園で育てた野菜で食事もつくる。おばあさんを辛くさせるのは孤独だ。時々お客さんが来たら嬉しくなって、直接育てたトウモロコシをいっぱいゆでて出すほどだ。



<慰安婦生存者13人証言>おばあさんの花札(2)

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