2013年4月、KBS(韓国放送公社)交響楽団公演の出演者が突然変わった。共演者だった日本のギタリスト村治佳織(37)が公演2週間前に演奏をキャンセルしたためだ。村治は国際的に活動している演奏者だ。15歳でデビューし、欧州・アジアのさまざまな舞台に立ってきた。村治は当時「健康上の理由」とだけ釈明した。
彼女は舌に腫瘍を発見した。白い傷が徐々に固くなった。病院を訪れるとすぐに手術日を決められた。村治は真っ盛りの演奏者だった。年に50回以上、世界各地で演奏予定が入っていた。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演、テナーのホセ・カレーラスとのコンサートのように重要なステージも多数予定されていた。
だが全日程を取り消した。デビュー20年で1カ月以上休むのは初めてだった。ピアニストの李京美(イ・ギョンミ、53)の説得によるものだった。李京美は村治の舌がんの消息を聞いて日本に向かった。「自分の体が優先だ。演奏への未練を持たずに休みなさい」と話した。それまで村治が最も多く聞いた応援の言葉は「早く良くなってステージに戻って」という言葉だった。7日ソウルで会った村治は「李京美の助言で我に返った。それまであまりにもギターだけの人生だったことを知った」と語った。
2人はちょうど20年前に出会った。イタリアのシエナの音楽祭でのことだ。道で誰かを待っていた村治に李京美が「何か手伝いましょうか」と尋ねた。そこでは東洋人が珍しかったからだ。李京美は「ちょうど私の末の妹と同じだった」と言った。宿泊先探しを助け、ご飯も食べさせた。村治は「韓国の人は情が良かった」と記憶した。その後、姉妹のような間柄になった。
2009年、村治は李京美の電話で数日後に韓国に来た。「乳がん手術をたった今終えた」という話のためだった。体に良い食べ物や、気分が良くなる明るい色の服を持って訪ねてきた。その後、数十回も韓国にきて李京美を応援した。2013年には李京美が日本に行った。温泉に一緒に通い、病気と闘った記憶をたどって助言をし、村治を世話した。
李京美は「誰よりも村治の気持ちがよく分かるような気がした」として「初めは生きたくもなかった。これぐらいなら派手に生きたかと思うだけだった」と話した。彼女はモーツァルトの専門家としてさまざまな舞台に立っていた。がんの宣告は停止信号のようだった。期待していた演奏ができなかった。だが、姉と3人の弟(妹)が彼女に「生きろ」と急き立てた。結局2011年に東京のサントリーホールで再起演奏をした。舞台の後、医師が待機していた。弱くなった気力を憂慮していたからだ。李京美は舞台に戻った。
村治にとって李京美は希望であり未来だ。2年前に手術をして経過観察中の村治は「李京美を見ていると『私も大丈夫だろう』と思う」と話した。彼女は11日午後8時、ソウルの芸術の殿堂で李京美とともに公演を行う。再起ステージを日本ではなく韓国で開く理由を「私を立ち直らせてくれた李京美に感謝しているから」と語った。韓日国交正常化50周年も記念する。村治は「両国関係は複雑で良くない。私たちの演奏1回が大きな変化をもたらすことはない。だが『日本・韓国の人の間にはこんな友情もある』ということを見せたい」と話した。
彼女は舌に腫瘍を発見した。白い傷が徐々に固くなった。病院を訪れるとすぐに手術日を決められた。村治は真っ盛りの演奏者だった。年に50回以上、世界各地で演奏予定が入っていた。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演、テナーのホセ・カレーラスとのコンサートのように重要なステージも多数予定されていた。
だが全日程を取り消した。デビュー20年で1カ月以上休むのは初めてだった。ピアニストの李京美(イ・ギョンミ、53)の説得によるものだった。李京美は村治の舌がんの消息を聞いて日本に向かった。「自分の体が優先だ。演奏への未練を持たずに休みなさい」と話した。それまで村治が最も多く聞いた応援の言葉は「早く良くなってステージに戻って」という言葉だった。7日ソウルで会った村治は「李京美の助言で我に返った。それまであまりにもギターだけの人生だったことを知った」と語った。
2人はちょうど20年前に出会った。イタリアのシエナの音楽祭でのことだ。道で誰かを待っていた村治に李京美が「何か手伝いましょうか」と尋ねた。そこでは東洋人が珍しかったからだ。李京美は「ちょうど私の末の妹と同じだった」と言った。宿泊先探しを助け、ご飯も食べさせた。村治は「韓国の人は情が良かった」と記憶した。その後、姉妹のような間柄になった。
2009年、村治は李京美の電話で数日後に韓国に来た。「乳がん手術をたった今終えた」という話のためだった。体に良い食べ物や、気分が良くなる明るい色の服を持って訪ねてきた。その後、数十回も韓国にきて李京美を応援した。2013年には李京美が日本に行った。温泉に一緒に通い、病気と闘った記憶をたどって助言をし、村治を世話した。
李京美は「誰よりも村治の気持ちがよく分かるような気がした」として「初めは生きたくもなかった。これぐらいなら派手に生きたかと思うだけだった」と話した。彼女はモーツァルトの専門家としてさまざまな舞台に立っていた。がんの宣告は停止信号のようだった。期待していた演奏ができなかった。だが、姉と3人の弟(妹)が彼女に「生きろ」と急き立てた。結局2011年に東京のサントリーホールで再起演奏をした。舞台の後、医師が待機していた。弱くなった気力を憂慮していたからだ。李京美は舞台に戻った。
村治にとって李京美は希望であり未来だ。2年前に手術をして経過観察中の村治は「李京美を見ていると『私も大丈夫だろう』と思う」と話した。彼女は11日午後8時、ソウルの芸術の殿堂で李京美とともに公演を行う。再起ステージを日本ではなく韓国で開く理由を「私を立ち直らせてくれた李京美に感謝しているから」と語った。韓日国交正常化50周年も記念する。村治は「両国関係は複雑で良くない。私たちの演奏1回が大きな変化をもたらすことはない。だが『日本・韓国の人の間にはこんな友情もある』ということを見せたい」と話した。
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