イラスト=キム・フェリョン
激動の1970~80年代を切り抜けながら民主化運動の1つの軸として韓国社会の良心的な声を自任してきた出版社チャンビの境遇も気の毒になった。危機対応能力がこの程度しかなかったというのは2番目として、本をたくさん売ってくれるスター作家に振り回されるような姿を見せた。
ただ良い文学作品を探して読むだけだった読者らが、「文学権力」が幅をきかせる文壇の暗い現実に対する見聞を広げたのが、今回の盗作議論の収穫といえば収穫だろうか。
飛び火は同僚作家にも及んだ。ある重鎮小説家が24日の昼間、酒を飲んだ状態で記者に電話をかけてきた。彼は「長編小説を書いていて心が苦しくなって酒を1杯飲んだ」と言った。人々が完全な作家までも色眼鏡で眺めるような印象を受けるようになったという話であった。
良い小説は、まずしっかり読まれなければなければならないと考えるほうだ。それでも露骨に面白味を追求するエンターテインメント性の小説が良い小説だという話ではない。「文学性」と呼べる、あるものを備えてこそ良い小説の範疇に入るのだ。
今回の波紋のおかげで小説の商業性と文学性について改めて考えることになった。今まで申氏の小説が2つとも備えた代表ランナー格だったからだ。文学性とは何だろうか。陳腐な表現だが、人間と世の中に対する真実を含んでいてこそ文学性のある作品と言えるだろう。私たちが申氏の小説から単純な面白味を超えて感動まで抱いたのは、作家が自身の良心をかけて世の中と闘った正直な傷跡から、ある同質性を感じたためだ。
盗作は、そのような信頼を破ってしまう行為だ。それに対する真実をごまかすような申氏の態度は、失望感をさらに大きくした。そんな点で申氏の釈明はいまだに足りないと思う。大変だが、もう一度公開の場で十分に納得できるほどの釈明をしなければならない。私たちは、よく読まれて感動的な申京淑の小説を失いたくない。
シン・ジュンボン文化スポーツ部門記者
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