「私は1人の市民としては落第だ。隣人と共存しない代わりに自分の意地と執念だけを前面に出して生きてきた」。「市民」が知性界の話題として浮上した2015年初めに、ソウル大学の宋虎根(ソン・ホグン)教授はこのように告白した。彼が出した新著『私は市民なのか』は、自ら不足していた市民性に対する切なる省察だ。彼を含めた韓国の壮年世代は、成功と出世の論理だけを身につけて生きてきて、私益と公益の調和、共同体の倫理とはほど遠かったということだ。宋教授はこの頃、春川(チュンチョン)郊外の農村で村の人々と付き合いながら暮らし、こうした反省を体現化している。ソルラル(旧正月)を4日後に控えた先月14日、宋教授に会いに春川へと向かった。
チャン・フン教授(以下、チャン)=最近出した本で話題になっている『私は市民なのか』から話を始めよう。著者自らの人生に対する反省が色濃く反映されていた。
宋虎根教授(以下、宋)=昨年、セウォル号事故をきっかけに苦悩が始まった。どんな形でも韓国社会の公共性の問題を解きほぐさなければと考えるようになった。知識人が何をすべきかについて個人的な悩みが多かった。市民の1人として事態をどのように把握し贖罪すべきか熟考し、私自身がどれほど共存に悩みながら生きてきたのか告白したかった。結局は、私が本当に市民なのか。まだそれほど成熟した市民ではないようで市民になろうと努力する人、それなりに社会に貢献して生きようとする人だという点を見せたかった。そんな心情が今回の本の出発点だ。
チャン=著者本人の個人的な省察だが、同時に韓国社会の市民らに共感と提案を要請するものとして読まれた。反応はどうだったか?
宋=中央日報に本の書評が出た後、読者から多様な電子メールをもらった。韓国は経済的・政治的に成功した国だが、逆説的に韓国の自画像には深刻な欠乏があったりもする。言い換えると、私たちの時代の韓国社会には突破しなければならない障壁が多いが、これについての合意がないからだ。なぜ合意できないのか。問い詰めていけば最も欠乏しているのは市民意識だ。韓国市民が国家に度々要求している国家主義的な依存性が最大化された状態だ。この状態では私たちが新しい合意を作っても、多分すぐに崩れるだろう。自発的なものでないからだ。
チャン=その話を聞くと『私は市民なのか』でおぼろげだった焦点が明らかになる。市民が具体的にどのようにして共同の利益のために考え討論する市民になれるのかが気になった。ところで今までの話から見れば、韓国社会に欠乏した「共有コード」、すなわち福祉や経済の民主化などについての共同の立場を作り出す過程で公共的市民が登場できるという言葉に聞こえる。
宋=具体的な案の前に、現実から振り返ってみよう。韓国の平均的な人生に共同体が果たして働くだろうか。私は懐疑的だ。数年前にソウル瑞草洞(ソチョドン)の牛眠山(ウミョンサン)で山崩れが発生した時のことだ。アパート団地内に土砂が押し寄せてくるにも関わらず、住民らの誰も出て来ようとしなかった。皆がそのまま職場などに行ってしまい、結局は軍人が来て土砂を片づけた。住民たちはその作業が終るまで、ただ待っていた。それから国に損害賠償を請求した(笑)。大勢の人たちが介入した共同の問題が発生した時、自ら問題を解決できる組織体が韓国社会で働いているのかと尋ねるならば、答は「韓国には民主主義のミクロ的基礎である共同体はない」だ。そうした意味で韓国社会に今、最も必要なものは、いち早い経済成長や経済回復ではなく、市民が互いに共存してどのように暮らすのかという問題意識を身につけることだ。まずは自分たちの街、自分たちのアパート団地で民主的な生活様式を備えるのに全員が少しずつでも参加することが重要だ。方法がないわけではない。市民政治教育を義務化する必要がある。例えばすべての企業で会社員が社会的イシューを討論することによって見識を備える機会を制度化することだ。今は職業教育よりも市民教育が必要な時だと思われる。例えば「民主市民教育促進法」や「民主市民教育振興法」を作って1週間程度でもすべての成人が市民教育に参加するように法制化すればどうかと思う。
<インタビュー>市民意識の欠乏が韓国の根本問題…民主主義に近道はない(2)
<インタビュー>市民意識の欠乏が韓国の根本問題…民主主義に近道はない(3)
チャン・フン教授(以下、チャン)=最近出した本で話題になっている『私は市民なのか』から話を始めよう。著者自らの人生に対する反省が色濃く反映されていた。
宋虎根教授(以下、宋)=昨年、セウォル号事故をきっかけに苦悩が始まった。どんな形でも韓国社会の公共性の問題を解きほぐさなければと考えるようになった。知識人が何をすべきかについて個人的な悩みが多かった。市民の1人として事態をどのように把握し贖罪すべきか熟考し、私自身がどれほど共存に悩みながら生きてきたのか告白したかった。結局は、私が本当に市民なのか。まだそれほど成熟した市民ではないようで市民になろうと努力する人、それなりに社会に貢献して生きようとする人だという点を見せたかった。そんな心情が今回の本の出発点だ。
チャン=著者本人の個人的な省察だが、同時に韓国社会の市民らに共感と提案を要請するものとして読まれた。反応はどうだったか?
宋=中央日報に本の書評が出た後、読者から多様な電子メールをもらった。韓国は経済的・政治的に成功した国だが、逆説的に韓国の自画像には深刻な欠乏があったりもする。言い換えると、私たちの時代の韓国社会には突破しなければならない障壁が多いが、これについての合意がないからだ。なぜ合意できないのか。問い詰めていけば最も欠乏しているのは市民意識だ。韓国市民が国家に度々要求している国家主義的な依存性が最大化された状態だ。この状態では私たちが新しい合意を作っても、多分すぐに崩れるだろう。自発的なものでないからだ。
チャン=その話を聞くと『私は市民なのか』でおぼろげだった焦点が明らかになる。市民が具体的にどのようにして共同の利益のために考え討論する市民になれるのかが気になった。ところで今までの話から見れば、韓国社会に欠乏した「共有コード」、すなわち福祉や経済の民主化などについての共同の立場を作り出す過程で公共的市民が登場できるという言葉に聞こえる。
宋=具体的な案の前に、現実から振り返ってみよう。韓国の平均的な人生に共同体が果たして働くだろうか。私は懐疑的だ。数年前にソウル瑞草洞(ソチョドン)の牛眠山(ウミョンサン)で山崩れが発生した時のことだ。アパート団地内に土砂が押し寄せてくるにも関わらず、住民らの誰も出て来ようとしなかった。皆がそのまま職場などに行ってしまい、結局は軍人が来て土砂を片づけた。住民たちはその作業が終るまで、ただ待っていた。それから国に損害賠償を請求した(笑)。大勢の人たちが介入した共同の問題が発生した時、自ら問題を解決できる組織体が韓国社会で働いているのかと尋ねるならば、答は「韓国には民主主義のミクロ的基礎である共同体はない」だ。そうした意味で韓国社会に今、最も必要なものは、いち早い経済成長や経済回復ではなく、市民が互いに共存してどのように暮らすのかという問題意識を身につけることだ。まずは自分たちの街、自分たちのアパート団地で民主的な生活様式を備えるのに全員が少しずつでも参加することが重要だ。方法がないわけではない。市民政治教育を義務化する必要がある。例えばすべての企業で会社員が社会的イシューを討論することによって見識を備える機会を制度化することだ。今は職業教育よりも市民教育が必要な時だと思われる。例えば「民主市民教育促進法」や「民主市民教育振興法」を作って1週間程度でもすべての成人が市民教育に参加するように法制化すればどうかと思う。
<インタビュー>市民意識の欠乏が韓国の根本問題…民主主義に近道はない(2)
<インタビュー>市民意識の欠乏が韓国の根本問題…民主主義に近道はない(3)
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