孔魯明(コン・ロミョン)元外交部長官は「外交というのは結局、均衡的な姿勢の中から私たちの生きる道を探し求めていくこと」としながら、過去50年の韓国外交の歴史から教訓を得なければならないと話した。「振り返ってみると韓国の外交は、強大国に囲まれた地政学的な状況の中でどのようにすれば均衡的な姿勢を保って韓国の生きる道を求めていくのかに対する答え探しだった」
韓国の外交政策の生き証人ともいえる孔魯明(コン・ノミョン)元外交部長官(83)が、自身の経験に基づいて韓国の外交政策に対する反省と評価を込めた備忘録『私の外交ノート』(図書出版キパラン)を出版した。
自由党政権時期だった1958年に外交部に特別採用された後、96年に外交部長官職を辞任するまで38年間外交現場を見守ってきた孔元長官は「これまで直接見聞きし体験してきた韓国外交を記録として残そうという気持ちで整理した」と話した。彼は過去の経験から現在の教訓を得るべきだとして韓日関係などの懸案についても彼なりの助言を提示した。孔元長官は、円満な韓日関係のために「政治指導力を発揮し、大きな枠組みで道筋をつけなければならない」として「そのためには(両国首脳が)会って解決することが何より重要で、韓国がもう少し大人の立場で対話を主導しなければならない」と助言した。
92年に南北高官級会談代表として北朝鮮を相手にし、第1次北核危機直後に外交部長官をつとめた彼は、南北関係についても言及した。「核を放棄しなくては会えないとだけ言っていたら永遠に対話の道はない」として「北朝鮮自らが対話の場に出てこられるよう経済協力案などの多様な説得が必要だ」と指摘した。
大韓民国の政府樹立後の韓国外交の足跡を時代順に整理したこの本は、10・26事件〔朴正煕(パク・チョンヒ)暗殺事件〕で終わりになる。新軍部の登場後から外交部長官退任時までの話は、まもなく第2巻として出てくる予定だ。
--本を出版することになった動機は。
「長官から退いた後、東国(トングク)大学客員教授だった時に韓国外交史の講義を1年余りかけてしながら自ら整理した内容だ。出版会社のアン・ビョンフン代表と建国初期の韓国外交に関していろいろな話を交わしながら本として一度出してみようということで10年間余り寝かせておいた資料を通史的に構成して出版することになった」
--どのようにして外交官の道に入ったのか。
「58年春、軍服務中に外交部に特別採用されて入った。当時は休戦後に韓国政府の図体が大きくなりながら外交官が不足し軍の通訳将校の中から外交官を選んでいたが、そこに合格して外交官の道に進むことになった。今のソウルファイナンスビルの場所にあった外交部太平路(テピョンノ)庁舎に初出勤したが、職員が100人前後という身軽な組織だった。当時は先輩たちから口伝えのみで外交現場の経験談を教わった。韓国建国初期の外交史に色々な事があったということを記録で残したらいいだろうと常々考えてきた」
◆最も外交感覚優れた大統領は李承晩
--その時の話の中で記憶に残ることがあれば。
「1882年の韓米修交(朝米修好通商条約)に対する評価だ。当時韓国は中国(清)の属国だった。修交当時も清国は自分たちの承認が必要だとして条約に干渉しようとした。ところが米国が清の主張をはねつけて朝鮮を自主国家として接した。この時から韓国が国際外交舞台に主権国家として出ることができたということだ」(中央SUNDAY第410号)
行き詰った韓日関係、首脳会談で道筋つけるべき(2)
韓国の外交政策の生き証人ともいえる孔魯明(コン・ノミョン)元外交部長官(83)が、自身の経験に基づいて韓国の外交政策に対する反省と評価を込めた備忘録『私の外交ノート』(図書出版キパラン)を出版した。
自由党政権時期だった1958年に外交部に特別採用された後、96年に外交部長官職を辞任するまで38年間外交現場を見守ってきた孔元長官は「これまで直接見聞きし体験してきた韓国外交を記録として残そうという気持ちで整理した」と話した。彼は過去の経験から現在の教訓を得るべきだとして韓日関係などの懸案についても彼なりの助言を提示した。孔元長官は、円満な韓日関係のために「政治指導力を発揮し、大きな枠組みで道筋をつけなければならない」として「そのためには(両国首脳が)会って解決することが何より重要で、韓国がもう少し大人の立場で対話を主導しなければならない」と助言した。
92年に南北高官級会談代表として北朝鮮を相手にし、第1次北核危機直後に外交部長官をつとめた彼は、南北関係についても言及した。「核を放棄しなくては会えないとだけ言っていたら永遠に対話の道はない」として「北朝鮮自らが対話の場に出てこられるよう経済協力案などの多様な説得が必要だ」と指摘した。
大韓民国の政府樹立後の韓国外交の足跡を時代順に整理したこの本は、10・26事件〔朴正煕(パク・チョンヒ)暗殺事件〕で終わりになる。新軍部の登場後から外交部長官退任時までの話は、まもなく第2巻として出てくる予定だ。
--本を出版することになった動機は。
「長官から退いた後、東国(トングク)大学客員教授だった時に韓国外交史の講義を1年余りかけてしながら自ら整理した内容だ。出版会社のアン・ビョンフン代表と建国初期の韓国外交に関していろいろな話を交わしながら本として一度出してみようということで10年間余り寝かせておいた資料を通史的に構成して出版することになった」
--どのようにして外交官の道に入ったのか。
「58年春、軍服務中に外交部に特別採用されて入った。当時は休戦後に韓国政府の図体が大きくなりながら外交官が不足し軍の通訳将校の中から外交官を選んでいたが、そこに合格して外交官の道に進むことになった。今のソウルファイナンスビルの場所にあった外交部太平路(テピョンノ)庁舎に初出勤したが、職員が100人前後という身軽な組織だった。当時は先輩たちから口伝えのみで外交現場の経験談を教わった。韓国建国初期の外交史に色々な事があったということを記録で残したらいいだろうと常々考えてきた」
◆最も外交感覚優れた大統領は李承晩
--その時の話の中で記憶に残ることがあれば。
「1882年の韓米修交(朝米修好通商条約)に対する評価だ。当時韓国は中国(清)の属国だった。修交当時も清国は自分たちの承認が必要だとして条約に干渉しようとした。ところが米国が清の主張をはねつけて朝鮮を自主国家として接した。この時から韓国が国際外交舞台に主権国家として出ることができたということだ」(中央SUNDAY第410号)
行き詰った韓日関係、首脳会談で道筋つけるべき(2)
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