「中国の使者に見せてはいけません。あの人たちが求めても見せないでください」。
世宗(セジョン)13年10月。礼曹判書許稠(ホ・ジョ、1369~1439年)が世宗に声を荒げた。火薬技術の集約体である「花火」を中国から来た使者に見せてはならないということだった。崔茂宣(チェ・ムソン)が1373年に火薬製造法を発明してから朝鮮の火薬技術が発達し、火薬発祥地である中国への技術逆流出を懸念してのことだった。それから600年余り。かつては技術流出議論の対象になった花火を文化産業にして「輸出」の夢を育てる人がいる。ハンファの花火チームでマネジャーを務めるムン・ボンソクさんだ。26日にソウルの同社本社で彼に会った。
秋は彼にとってかき入れ時だ。全国各地で花火祭りが開かれるためだ。4日にはソウル・汝矣島(ヨイド)の漢江(ハンガン)河川敷で開かれる「世界花火祭り」と仁川(インチョン)アジア大会閉幕前の花火ショーが開かれる。10月最終週には釜山(プサン)・広安里(クァンアンリ)の浜辺で花火祭りが予定されている。こうした大型イベントのほか全国各地で彼が打ち上げる花火は年間130回に上る。
最初から「花火デザイナー」になろうとしたのではなかった。ミサイルを作りたかった。小学校2年生の時のことだ。ソウル・石村(ソクチョン)湖の近くにある友だちの家で紙飛行機を作った。テレビで見る宇宙船は一様に後部から火を吹き出して空に飛んでいったことを思い出した。紙飛行機の後部に火をつけて飛ばした。「ウワー」という叫び声もしばし。紙飛行機が不時着した花壇に火が燃え移った。実験は消防隊の出動により終わった。ミサイル発射体を作る夢をかなえようと化学工学科に進学した。その縁で火薬事業をするハンファに入社しミサイル推進剤を作って研究する仕事をした。
2005年秋。初めて会社が開催する花火祭りを見に漢江の河川敷に行った。漆黒の空の上で「ドーン」とはじける花火。そして続けて聞こえる「わぁ」というため息と歓声が心を揺さぶった。そのまま会社に出勤し、豪気に人事チームに「花火チームに行きたい」と志願した。だれもが「家で寝られない仕事だ」として引き止めた。だが、彼は籍を移した。仕事は聞いていたものより難しかった。音楽に合うように望んだ部分で花火がはじけるようコンピュータで設計し、点火もできるが残りはすべて人の手が必要だった。
花火は刹那に消えるのに対し作る過程は至難だ。筒で打ち上げる花火は球形で「煙火」と呼ばれる。最初に花火の形を選定しそれに合われた「星」をデザインする。例えば黄色い菊の形を作りたいなら植物の種に黄色を出すナトリウムをさまざまな化学剤と混ぜ、「星」という小さな火薬を作る。この星を菊の形に配置し導火線と星をはじけさせる火薬、打ち上げ推進剤を入れて紙で包む。ほとんどが手作業で行われる。
こうして作った花火を筒に入れるのも人の手がかかる。真冬でも花火を設置しなければならず手がかじかむことも多い。予行演習がないのも苦しかった。1度の行事に数十億ウォンがかかることもあるため花火を試しに打ち上げるのは話にならない。実際に花火ショーを始める時は極度の緊張感に苦しめられた。
花火祭りは厳然とした文化商品…輸出夢見る韓国企業(2)
世宗(セジョン)13年10月。礼曹判書許稠(ホ・ジョ、1369~1439年)が世宗に声を荒げた。火薬技術の集約体である「花火」を中国から来た使者に見せてはならないということだった。崔茂宣(チェ・ムソン)が1373年に火薬製造法を発明してから朝鮮の火薬技術が発達し、火薬発祥地である中国への技術逆流出を懸念してのことだった。それから600年余り。かつては技術流出議論の対象になった花火を文化産業にして「輸出」の夢を育てる人がいる。ハンファの花火チームでマネジャーを務めるムン・ボンソクさんだ。26日にソウルの同社本社で彼に会った。
秋は彼にとってかき入れ時だ。全国各地で花火祭りが開かれるためだ。4日にはソウル・汝矣島(ヨイド)の漢江(ハンガン)河川敷で開かれる「世界花火祭り」と仁川(インチョン)アジア大会閉幕前の花火ショーが開かれる。10月最終週には釜山(プサン)・広安里(クァンアンリ)の浜辺で花火祭りが予定されている。こうした大型イベントのほか全国各地で彼が打ち上げる花火は年間130回に上る。
最初から「花火デザイナー」になろうとしたのではなかった。ミサイルを作りたかった。小学校2年生の時のことだ。ソウル・石村(ソクチョン)湖の近くにある友だちの家で紙飛行機を作った。テレビで見る宇宙船は一様に後部から火を吹き出して空に飛んでいったことを思い出した。紙飛行機の後部に火をつけて飛ばした。「ウワー」という叫び声もしばし。紙飛行機が不時着した花壇に火が燃え移った。実験は消防隊の出動により終わった。ミサイル発射体を作る夢をかなえようと化学工学科に進学した。その縁で火薬事業をするハンファに入社しミサイル推進剤を作って研究する仕事をした。
2005年秋。初めて会社が開催する花火祭りを見に漢江の河川敷に行った。漆黒の空の上で「ドーン」とはじける花火。そして続けて聞こえる「わぁ」というため息と歓声が心を揺さぶった。そのまま会社に出勤し、豪気に人事チームに「花火チームに行きたい」と志願した。だれもが「家で寝られない仕事だ」として引き止めた。だが、彼は籍を移した。仕事は聞いていたものより難しかった。音楽に合うように望んだ部分で花火がはじけるようコンピュータで設計し、点火もできるが残りはすべて人の手が必要だった。
花火は刹那に消えるのに対し作る過程は至難だ。筒で打ち上げる花火は球形で「煙火」と呼ばれる。最初に花火の形を選定しそれに合われた「星」をデザインする。例えば黄色い菊の形を作りたいなら植物の種に黄色を出すナトリウムをさまざまな化学剤と混ぜ、「星」という小さな火薬を作る。この星を菊の形に配置し導火線と星をはじけさせる火薬、打ち上げ推進剤を入れて紙で包む。ほとんどが手作業で行われる。
こうして作った花火を筒に入れるのも人の手がかかる。真冬でも花火を設置しなければならず手がかじかむことも多い。予行演習がないのも苦しかった。1度の行事に数十億ウォンがかかることもあるため花火を試しに打ち上げるのは話にならない。実際に花火ショーを始める時は極度の緊張感に苦しめられた。
花火祭りは厳然とした文化商品…輸出夢見る韓国企業(2)
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