小柄ながらも恰幅のいい体型で、鋭い眼光を放つ壮年の男。部屋のすみで花札を弄んでいる丈和だ。机の前に座り、背中を正して兵書読む黒い眉毛のアバタ顔の男。因碩だ。
19世紀初めの日本。宿敵の丈和(1787~1847年)と幻庵因碩(1798~1859)の対局はいつも熱気を含んでいた。囲碁は一日や二日では終わらないので対局中の休息は家で取った。そのたびに2人の対局者の態度は違った。丈和は花札の札を取り出し、因碩は兵書を読んだ。対照的な2人の棋士は名人位をめぐり深慮遠謀の争闘を繰り広げた。丈和が勝った。因碩がけちをつけようとしたが丈和は問題をうまく避けて通った。政略的に名人位に上がった。2人の棋士戦績で丈和が先んじたことは事実だが、因碩も実力では名人級だった。人間史の不条理なのだろうか。
◆時越・范廷鈺からは哲学不在が見える
囲碁は難しい世界だ。うまく打ちたいがなかなかそうはいかない難しい世界だ。なぜだろうか。囲碁は形の遊びだ。ところが形は本来描写的で、描写は自己確定的だ。対局者は形からなかなか抜け出せない。ジレンマが生まれる。形にだけ閉じこもっていては形の遊びで以って遊ぶことができない。閉じ込められるからだ。それにもかかわらず、形の中で遊んでこそ形について若干ではあるが悟りを得ることができる。1日じゅう囲碁だけをやたら打っていてもうまくいく世界ではないことが分かる。分かっていても思い通りには行かない。そうだろうか。
ところでだいたいうまく打てるということはよく知っていることを前提にしているのではないかのか。名人は何を知っているのだろうか。表「人物と見識」は過去100年の名人級の一言を集めてみたものだ。この他にもあるが惜しいことに筆者の記憶はこの程度だ。
表を詳しく見てみよう。因碩は「囲碁は運の芸」と言った。芸は芸術的な価値を持った技を指す。囲碁を社会的な価値の水準から定義した。呉清源の「碁は調和なり」。これは本質を説破する水準だ。
丈和は「中」。老子の哲学だ。もちろん囲碁の本質がこれ一つに限定されるものではない。
他の棋士の表現には棋士個人の気風や勝負哲学が表われている。
「勝つ者が強い」と言う木谷。「(木谷には)ほとばしる鋼鉄のような力があった」という藤沢秀行(1925~2009)の回顧があった。「流水不争先(流水先を争わず)」。高川の囲碁は流れが柔軟だった。別称が「平明」だった。「囲碁は悲しいドラマ」。そうだ。坂田の囲碁は激烈だった。戦いには明るかったが戦いの中で展転した。鬼気迫るものがあった。武宮の宇宙流哲学は最近のものだ。若かったころのものではない。明るいのは良いのだが、一貫する観念が入っていない。趙治勲の「たがか囲碁」はいつ会得したのか。齢五十を越えた時、タイトルも失い力も消えて疲れていたころに得た。囲碁に「何か」があるといって人生を投げうったが、「実は何もなかった」という印象を受ける。しかし結局は自きょうした。「されど囲碁」。
時越と范廷鈺の一言は2012年に出てきた。志はあるが哲学の不在が伺え、内容のない希望を吐露した程度だ。年齢はまだ若いが今日の囲碁世界が開いている地平の限界を正面から感じる。
古今を振り返れば名人の水準に達した棋士は多かった。しかし囲碁に対して何か一言格言を残した棋士は殆どなかった。
ところで過去100年の間には5~6人の棋士が囲碁について一家言残している。偶然だろうか。そうではない。偶然でない。それは日本棋院の創設と新布石革命からきた。
◆80年代に崩れた日本囲碁…哲学からも遠ざかる
19世紀末、封建的な幕府政権が崩壊した時、囲碁の4大一族は俸禄が断たれて生計をおびやかされた。彼らはついに伝統を捨てて1924年に日本棋院を誕生させた。市場経済の中で、法人として世の中を生きていくことに決めた。棋道から囲碁のアイデンティティを見出した。伝統が与える権威でなく、個人の実力を重視した。市場に登場すると圧力が押し寄せた。棋士は日本棋院が提示した囲碁のアイデンティティに一役を担当しなければならなかった。その役割を相異性と相補性に求めなくてはならなかった。
あなたと私は違う(相違性)。違うから互いに助けることができる(相補性)。社会体系の中で個人と階層、階級の機能を確認する人類学の命題だ。時間が過ぎ、相違性を確認する必要があった。
棋士の名前の前に別称がつくようになった。神通の呉清源、華麗の藤沢、美学の大竹、宇宙流の武宮、平明の高川、鋼鉄の木谷らがそれだ。別称は棋風を反映した。囲碁にあるかもしれない属性を適切に表現した。哲学の素材も与えられた。
1930代の新布石革命。盤上にパラダイム革命が起きたのだ。パラダイム革命は世界観の革命。世界が変われば個人は各自自らの世界を再解釈する過程を体験しなければならない。囲碁における解釈者は棋士個人だ。したがって世界の解釈過程は棋風の自覚過程とも言える。解釈と自覚は実験として表し、検証を受けなければならなかった。相手の後を追って打つマネ碁が代表的な事例だ。
呉清源が黒でマネ碁をしたのが1929年だが、藤沢庫之助(1919~1992)は白でマネ碁を実験した。勝ちもし負けもした。万人が反対しても彼はマネ碁を貫いた。写真は1950年代末のマネ碁だ。この碁は67数まで打ったあとマネをやめた。
(中央SUNDAY第382号)
名人の哲学のあった日本囲碁、中国は兵法の沼に落ち韓国は…(2)
19世紀初めの日本。宿敵の丈和(1787~1847年)と幻庵因碩(1798~1859)の対局はいつも熱気を含んでいた。囲碁は一日や二日では終わらないので対局中の休息は家で取った。そのたびに2人の対局者の態度は違った。丈和は花札の札を取り出し、因碩は兵書を読んだ。対照的な2人の棋士は名人位をめぐり深慮遠謀の争闘を繰り広げた。丈和が勝った。因碩がけちをつけようとしたが丈和は問題をうまく避けて通った。政略的に名人位に上がった。2人の棋士戦績で丈和が先んじたことは事実だが、因碩も実力では名人級だった。人間史の不条理なのだろうか。
◆時越・范廷鈺からは哲学不在が見える
囲碁は難しい世界だ。うまく打ちたいがなかなかそうはいかない難しい世界だ。なぜだろうか。囲碁は形の遊びだ。ところが形は本来描写的で、描写は自己確定的だ。対局者は形からなかなか抜け出せない。ジレンマが生まれる。形にだけ閉じこもっていては形の遊びで以って遊ぶことができない。閉じ込められるからだ。それにもかかわらず、形の中で遊んでこそ形について若干ではあるが悟りを得ることができる。1日じゅう囲碁だけをやたら打っていてもうまくいく世界ではないことが分かる。分かっていても思い通りには行かない。そうだろうか。
ところでだいたいうまく打てるということはよく知っていることを前提にしているのではないかのか。名人は何を知っているのだろうか。表「人物と見識」は過去100年の名人級の一言を集めてみたものだ。この他にもあるが惜しいことに筆者の記憶はこの程度だ。
表を詳しく見てみよう。因碩は「囲碁は運の芸」と言った。芸は芸術的な価値を持った技を指す。囲碁を社会的な価値の水準から定義した。呉清源の「碁は調和なり」。これは本質を説破する水準だ。
丈和は「中」。老子の哲学だ。もちろん囲碁の本質がこれ一つに限定されるものではない。
他の棋士の表現には棋士個人の気風や勝負哲学が表われている。
「勝つ者が強い」と言う木谷。「(木谷には)ほとばしる鋼鉄のような力があった」という藤沢秀行(1925~2009)の回顧があった。「流水不争先(流水先を争わず)」。高川の囲碁は流れが柔軟だった。別称が「平明」だった。「囲碁は悲しいドラマ」。そうだ。坂田の囲碁は激烈だった。戦いには明るかったが戦いの中で展転した。鬼気迫るものがあった。武宮の宇宙流哲学は最近のものだ。若かったころのものではない。明るいのは良いのだが、一貫する観念が入っていない。趙治勲の「たがか囲碁」はいつ会得したのか。齢五十を越えた時、タイトルも失い力も消えて疲れていたころに得た。囲碁に「何か」があるといって人生を投げうったが、「実は何もなかった」という印象を受ける。しかし結局は自きょうした。「されど囲碁」。
時越と范廷鈺の一言は2012年に出てきた。志はあるが哲学の不在が伺え、内容のない希望を吐露した程度だ。年齢はまだ若いが今日の囲碁世界が開いている地平の限界を正面から感じる。
古今を振り返れば名人の水準に達した棋士は多かった。しかし囲碁に対して何か一言格言を残した棋士は殆どなかった。
ところで過去100年の間には5~6人の棋士が囲碁について一家言残している。偶然だろうか。そうではない。偶然でない。それは日本棋院の創設と新布石革命からきた。
◆80年代に崩れた日本囲碁…哲学からも遠ざかる
19世紀末、封建的な幕府政権が崩壊した時、囲碁の4大一族は俸禄が断たれて生計をおびやかされた。彼らはついに伝統を捨てて1924年に日本棋院を誕生させた。市場経済の中で、法人として世の中を生きていくことに決めた。棋道から囲碁のアイデンティティを見出した。伝統が与える権威でなく、個人の実力を重視した。市場に登場すると圧力が押し寄せた。棋士は日本棋院が提示した囲碁のアイデンティティに一役を担当しなければならなかった。その役割を相異性と相補性に求めなくてはならなかった。
あなたと私は違う(相違性)。違うから互いに助けることができる(相補性)。社会体系の中で個人と階層、階級の機能を確認する人類学の命題だ。時間が過ぎ、相違性を確認する必要があった。
棋士の名前の前に別称がつくようになった。神通の呉清源、華麗の藤沢、美学の大竹、宇宙流の武宮、平明の高川、鋼鉄の木谷らがそれだ。別称は棋風を反映した。囲碁にあるかもしれない属性を適切に表現した。哲学の素材も与えられた。
1930代の新布石革命。盤上にパラダイム革命が起きたのだ。パラダイム革命は世界観の革命。世界が変われば個人は各自自らの世界を再解釈する過程を体験しなければならない。囲碁における解釈者は棋士個人だ。したがって世界の解釈過程は棋風の自覚過程とも言える。解釈と自覚は実験として表し、検証を受けなければならなかった。相手の後を追って打つマネ碁が代表的な事例だ。
呉清源が黒でマネ碁をしたのが1929年だが、藤沢庫之助(1919~1992)は白でマネ碁を実験した。勝ちもし負けもした。万人が反対しても彼はマネ碁を貫いた。写真は1950年代末のマネ碁だ。この碁は67数まで打ったあとマネをやめた。
(中央SUNDAY第382号)
名人の哲学のあった日本囲碁、中国は兵法の沼に落ち韓国は…(2)
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