「最も適切な政治感覚を備えた外交官、それと同じくらいの外交的技術を備えた政治家」。10日、国家情報院長候補に内定した李丙ギ(イ・ビョンキ)駐日大使に対して複数の外交部関係者が出した評価だ。スパイ事件証拠操作などで信頼に傷がついた国家情報院の首長として、青瓦台(チョンワデ、大統領府)が李氏が適格だと判断した理由でもある。元世勲(ウォン・セフン)元院長が賄賂授受事件で実刑を宣告され、次の南在俊(ナム・ジェジュン)前院長が不名誉な退陣をした状況で、朴槿恵(パク・クネ)大統領は非軍人出身ですでに安全企画部次長を歴任して組織生理を熟知している李氏が適任者だと判断したのだ。
李氏は歴代大統領3人と深い縁がある。李氏が政界と縁を結んだのは1981年のことだった。当時、現役保安司令官から予備役となり政務長官になった盧泰愚(ノ・テウ)元大統領が盧信永(ノ・シニョン)外相に秘書の推薦を依頼したところ、盧外相はケニア駐在大使館で1等書記官として勤務していた李氏を推薦した。
その後、盧泰愚元大統領がオリンピック(五輪)組織委員長、民正党代表委員などを歴任するなか最も近い場所で補佐役として活躍して「影秘書」という評価を受けた。盧泰愚政権3年目だった90年には、次官級である青瓦台儀典首席になった。その気になれば古巣の外務部に戻ることもできたが、同期や先輩外交官のことを考えて外務部高位職は固辞したという。民政・民主・共和党が合わさって作られた民自党では、金泳三(キム・ヨンサム)元大統領と通じた。
92年の大統領選挙候補決定の時、青瓦台内の気流を金元大統領側に知らせる助っ人役も果たした。金泳三政府では安全企画部第2次長を務めた。李氏が第2次長だった時、黄長ヨプ(ファン・ジャンヨプ)元朝鮮労働党書記(2010年死亡)の亡命という超大型事件が起きた。当時、金泳三大統領が中国の江沢民主席に親書を送ってどうにか黄書記をフィリピンに連れ出すことができたほど、事態は緊迫した状態で動いていた。黄書記が韓国に到着する時までの67日間、李氏は安全企画部主務次長として実務を総括した。黄書記が97年4月20日、城南(ソンナム)のソウル空港に降り立った時に初めて迎えた韓国要人も李氏だった。
第2次長の任期を最後に公職生活を終わらせた李氏は日本の慶応大で客員教授として在職したあと、2002年にハンナラ党大統領候補の李会昌(イ・フェチャン)氏の政治特報で政界に入り核心側近として活動した。引き続き盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の弾劾事態後、危機に陥ったハンナラ党に救援投手として登場した朴槿恵大統領の友軍としてその位置を確立した。2004年から「親朴」に位置づいた李氏は、2007年に李明博(イ・ミョンバク)前大統領と朴大統領がハンナラ党大統領候補を争っていた時、朴大統領キャンプで選挙対策副委員長を務めて外交・安保分野および政務に対して助言を行っていた。昨年の大統領選挙の時はセヌリ党汝矣島(ヨイド)研究所顧問を務めて朴大統領当選の一助となった。朴槿恵政権スタート後の昨年5月には駐日大使として赴任し、悪化の一途をたどる韓日葛藤の最前線に立った。
李氏は国家情報院の政治的独立性確保という重要な課題を抱えている。国家情報院第1次長を過ごした全玉鉉(チョン・オクヒョン)ソウル大国際大学院招へい教授は「国家情報院が政治的非難を受けて誤解が生じ、情報活動や対北朝鮮情報網の多くが機能していない状況」としながら「李候補は短期間で組織を統制して職員の士気も高め、情報マンが本来の任務を遂行できるように国家情報院の中心をしっかりと安定させなくてはならない」と話した。
李氏は歴代大統領3人と深い縁がある。李氏が政界と縁を結んだのは1981年のことだった。当時、現役保安司令官から予備役となり政務長官になった盧泰愚(ノ・テウ)元大統領が盧信永(ノ・シニョン)外相に秘書の推薦を依頼したところ、盧外相はケニア駐在大使館で1等書記官として勤務していた李氏を推薦した。
その後、盧泰愚元大統領がオリンピック(五輪)組織委員長、民正党代表委員などを歴任するなか最も近い場所で補佐役として活躍して「影秘書」という評価を受けた。盧泰愚政権3年目だった90年には、次官級である青瓦台儀典首席になった。その気になれば古巣の外務部に戻ることもできたが、同期や先輩外交官のことを考えて外務部高位職は固辞したという。民政・民主・共和党が合わさって作られた民自党では、金泳三(キム・ヨンサム)元大統領と通じた。
92年の大統領選挙候補決定の時、青瓦台内の気流を金元大統領側に知らせる助っ人役も果たした。金泳三政府では安全企画部第2次長を務めた。李氏が第2次長だった時、黄長ヨプ(ファン・ジャンヨプ)元朝鮮労働党書記(2010年死亡)の亡命という超大型事件が起きた。当時、金泳三大統領が中国の江沢民主席に親書を送ってどうにか黄書記をフィリピンに連れ出すことができたほど、事態は緊迫した状態で動いていた。黄書記が韓国に到着する時までの67日間、李氏は安全企画部主務次長として実務を総括した。黄書記が97年4月20日、城南(ソンナム)のソウル空港に降り立った時に初めて迎えた韓国要人も李氏だった。
第2次長の任期を最後に公職生活を終わらせた李氏は日本の慶応大で客員教授として在職したあと、2002年にハンナラ党大統領候補の李会昌(イ・フェチャン)氏の政治特報で政界に入り核心側近として活動した。引き続き盧武鉉(ノ・ムヒョン)元大統領の弾劾事態後、危機に陥ったハンナラ党に救援投手として登場した朴槿恵大統領の友軍としてその位置を確立した。2004年から「親朴」に位置づいた李氏は、2007年に李明博(イ・ミョンバク)前大統領と朴大統領がハンナラ党大統領候補を争っていた時、朴大統領キャンプで選挙対策副委員長を務めて外交・安保分野および政務に対して助言を行っていた。昨年の大統領選挙の時はセヌリ党汝矣島(ヨイド)研究所顧問を務めて朴大統領当選の一助となった。朴槿恵政権スタート後の昨年5月には駐日大使として赴任し、悪化の一途をたどる韓日葛藤の最前線に立った。
李氏は国家情報院の政治的独立性確保という重要な課題を抱えている。国家情報院第1次長を過ごした全玉鉉(チョン・オクヒョン)ソウル大国際大学院招へい教授は「国家情報院が政治的非難を受けて誤解が生じ、情報活動や対北朝鮮情報網の多くが機能していない状況」としながら「李候補は短期間で組織を統制して職員の士気も高め、情報マンが本来の任務を遂行できるように国家情報院の中心をしっかりと安定させなくてはならない」と話した。
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