8日にニューヨーク・マンハッタン42番街のニューヨークタイムズ本社で韓国人初のピューリッツァ賞2冠を受賞したイ・ジャンウク氏の20周年回顧展が開かれた。この20年間に50カ国余りを駆け巡った記録だった。戦争の廃虚の中に咲く花のような子どもたちのあどけなさ、自然災害で全てを失った女性が水の流れに痛みを洗い落とす姿、2001年9・11テロ当時の崩れる3秒前の世界貿易センター、イラク戦争当時シナイ山で夜空の星を眺めるクルド哨兵の姿…。ニューヨークタイムズはどんな写真を撮っても叙情的で詩的だと彼の写真を評したことがある。ニューヨークタイムズでのカメラマン人生20年を尋ねた。
「宿命だと考えます。カメラマンという職を持つことになったのも。この20年間ただの一度も別のことをしてみようと考えたことはなかったですから。ピューリッツァ賞を受賞した後、周りから『エディターをしてみろ、事業をしてみろ』との誘惑もたくさんありました。しかし別の考えはしませんでした。まだ写真ほど私に『生きている』という気分を持たせてくれるものはないようです」。
待った者にだけ開かれるという「魔の瞬間」を通じ望み通りの写真を撮った時の歓喜を他の職業に求めるのは容易ではなかっただろう。「話題の中心にある現場に直接行き、見て、感じて、撮って、話したいという欲望が私の血に流れているのです」。
彼は「お金を追っていたらすでに大金持ちになっていただろうがピューリッツァ賞は受けられなかっただろう」と言いながら笑った。イ氏は釜山(プサン)出身で中央大学建築工学科1年生だった1986年にニュージャージーに住む叔母の招きで渡米。昼間はアルバイトをし、夜はバーゲンコミュニティカレッジでコンピュータ科学を勉強した。高校の時に趣味だった写真を勉強するためニューヨーク大学に編入することになったのが人生の転機となった。
ピューリッツァ賞2冠韓国人「訪朝ビザ拒絶4回…それでも取材に行きたい」(2)
「宿命だと考えます。カメラマンという職を持つことになったのも。この20年間ただの一度も別のことをしてみようと考えたことはなかったですから。ピューリッツァ賞を受賞した後、周りから『エディターをしてみろ、事業をしてみろ』との誘惑もたくさんありました。しかし別の考えはしませんでした。まだ写真ほど私に『生きている』という気分を持たせてくれるものはないようです」。
待った者にだけ開かれるという「魔の瞬間」を通じ望み通りの写真を撮った時の歓喜を他の職業に求めるのは容易ではなかっただろう。「話題の中心にある現場に直接行き、見て、感じて、撮って、話したいという欲望が私の血に流れているのです」。
彼は「お金を追っていたらすでに大金持ちになっていただろうがピューリッツァ賞は受けられなかっただろう」と言いながら笑った。イ氏は釜山(プサン)出身で中央大学建築工学科1年生だった1986年にニュージャージーに住む叔母の招きで渡米。昼間はアルバイトをし、夜はバーゲンコミュニティカレッジでコンピュータ科学を勉強した。高校の時に趣味だった写真を勉強するためニューヨーク大学に編入することになったのが人生の転機となった。
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