4年前にファッションデザイン専攻の大学生とプロジェクトを進めたことがある。毎月1回ずつ学校を決め、参加学生に違うテーマを出した。ただ共通点は、韓国的なものを入れながらも現代的に変貌した作品を作ることだった。ここから学生の悩みは始まった。果たして「韓国的」なものとは何かという定義から出さなければならなかったからだ。しかし数回やってみると、不思議にも答えは大同小異だった。たっぷり、曲線、柔らかさ…。韓服や韓屋の瓦などを考えれば納得できる単語だった。当然、作品もそのようなシルエットを持つデザインが多かった。当時は「果たしてそうだろうか」という疑問を一度も提起しなかったが、その理由を考えてみると、記者の立場でも作る学生の立場でも「最も安全な選択」をしたのではないだろうか。きものモチーフの服を見れば「ジャパニーズスタイル」と釘を刺せる先例があったということだ。
その後も「韓国的デザイン」は相変わらずあいまいなキーワードだった。ファッション韓流という言葉が登場し始め、「韓国的デザイン」という表現がよく使われたが、デザイナーごとに考えは違った。韓服の伝統素材を利用したりハングルをモチーフとする服を韓国的デザインと話す人がいる一方、「韓国人が作れば何をしても当然韓国的な要素が加わる」と話す人もいた。その度にスペクトラムが実に広い概念だという程度に考えてしまった。今回の「ピッティ・ウォモ」に参加したF.N.B.C.by Instantologyのジャケット。格式ある正統ジャケットスタイルに変形を試みた。
すると最近また「韓国的デザイン」が興味深いテーマとなった。フィレンツェの男性服博覧会「ピッティ・ウォモ」の取材中に聞いた一言のためだった。当時行事には韓国の数人の新進デザイナーが参加し、そのデザイナーたちに事業コンサルティングをしたというカルロ・ディ・セグリア氏に会うことができた。セグリア氏はグローバルビジネスアドバイザーとして、ヒューゴボスやジョルジオアルマーニなど世界的なブランドの販売戦略を担当してきた人物だ。韓国の大企業にも助言したことがあるという。
彼に韓国デザイナーの強みについて尋ねたところ、答えはこうだった。「伝統的なテーラリング様式の技法に韓国的なデザインを加味することができる」。その後の話でも何度か韓国的なデザインに言及した。いくら関連性を見いだそうとしても博覧会に参加したデザイナーには合わないコメントだった。韓国デザイナーが作ったジャケットやジャンパーからどんな曲線や柔らかさを感じたというのだろうか。何が韓国的なデザインなのか彼に尋ねなければならなかった。
「私にとって韓国的なデザインとは革新的な何かであり、何かを奇抜にさせる力だ。韓国と聞いて思い浮かぶものは携帯電話・コンピューター・自動車ではないだろうか。すでに強大国に追いつくことができる革新と速度、それが私が考える韓国的なデザインだ」。
その瞬間「なるほど」と思ったが、こうした異邦人の視線について聞くのは初めてではなかった。ルイヴィトンの旅行ガイドブックの写真を撮ったティエル・アルドエン氏もインタビューで同じような話をした。ソウルにくる前のイメージはただ「サムスン」、正確には「サムスンの携帯電話」だったという。しかし実際に来てみると「みんなが躍動的、そして熱心に生きる国のようだ」と言いながら。
もしかすると、今はもう「韓国的デザイン」の意味を定義し直すべき時期に来ているのではないだろうか。私たちの伝統文化と歴史を知らせ、そこから派生したデザインを知らせれば定石であり最高の方法かもしれないが、外国人がすでに持っているイメージをあえて知らないふりをする必要もない。異邦人が自ら作り出した、そしてかなり肯定的に近づいてくる韓国のイメージを活用してみることだ。革新を辞書で調べてみると、「古い風俗、慣習、組織、方法などを完全に変えて新しくすること」という意味だった。ファッションデザインに関しては米国が実用を、英国が実験を一つのイメージとして出すように、「韓国的ファッション? 革新です!」と話すことができたらどうだろうか。旧正月を迎えてしてみた“韓国的”な考えだ。 (中央SUNDAY第359号)
その後も「韓国的デザイン」は相変わらずあいまいなキーワードだった。ファッション韓流という言葉が登場し始め、「韓国的デザイン」という表現がよく使われたが、デザイナーごとに考えは違った。韓服の伝統素材を利用したりハングルをモチーフとする服を韓国的デザインと話す人がいる一方、「韓国人が作れば何をしても当然韓国的な要素が加わる」と話す人もいた。その度にスペクトラムが実に広い概念だという程度に考えてしまった。今回の「ピッティ・ウォモ」に参加したF.N.B.C.by Instantologyのジャケット。格式ある正統ジャケットスタイルに変形を試みた。
すると最近また「韓国的デザイン」が興味深いテーマとなった。フィレンツェの男性服博覧会「ピッティ・ウォモ」の取材中に聞いた一言のためだった。当時行事には韓国の数人の新進デザイナーが参加し、そのデザイナーたちに事業コンサルティングをしたというカルロ・ディ・セグリア氏に会うことができた。セグリア氏はグローバルビジネスアドバイザーとして、ヒューゴボスやジョルジオアルマーニなど世界的なブランドの販売戦略を担当してきた人物だ。韓国の大企業にも助言したことがあるという。
彼に韓国デザイナーの強みについて尋ねたところ、答えはこうだった。「伝統的なテーラリング様式の技法に韓国的なデザインを加味することができる」。その後の話でも何度か韓国的なデザインに言及した。いくら関連性を見いだそうとしても博覧会に参加したデザイナーには合わないコメントだった。韓国デザイナーが作ったジャケットやジャンパーからどんな曲線や柔らかさを感じたというのだろうか。何が韓国的なデザインなのか彼に尋ねなければならなかった。
「私にとって韓国的なデザインとは革新的な何かであり、何かを奇抜にさせる力だ。韓国と聞いて思い浮かぶものは携帯電話・コンピューター・自動車ではないだろうか。すでに強大国に追いつくことができる革新と速度、それが私が考える韓国的なデザインだ」。
その瞬間「なるほど」と思ったが、こうした異邦人の視線について聞くのは初めてではなかった。ルイヴィトンの旅行ガイドブックの写真を撮ったティエル・アルドエン氏もインタビューで同じような話をした。ソウルにくる前のイメージはただ「サムスン」、正確には「サムスンの携帯電話」だったという。しかし実際に来てみると「みんなが躍動的、そして熱心に生きる国のようだ」と言いながら。
もしかすると、今はもう「韓国的デザイン」の意味を定義し直すべき時期に来ているのではないだろうか。私たちの伝統文化と歴史を知らせ、そこから派生したデザインを知らせれば定石であり最高の方法かもしれないが、外国人がすでに持っているイメージをあえて知らないふりをする必要もない。異邦人が自ら作り出した、そしてかなり肯定的に近づいてくる韓国のイメージを活用してみることだ。革新を辞書で調べてみると、「古い風俗、慣習、組織、方法などを完全に変えて新しくすること」という意味だった。ファッションデザインに関しては米国が実用を、英国が実験を一つのイメージとして出すように、「韓国的ファッション? 革新です!」と話すことができたらどうだろうか。旧正月を迎えてしてみた“韓国的”な考えだ。 (中央SUNDAY第359号)
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