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ロシアの老作家の憤怒に応えたドイツの起立拍手

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

作家のダニール・グラーニン氏(95)

27日、ベルリンにあるドイツ連邦下院(ブンデスターク)。全議員が起立した。1分間の黙とうが続いた。ナチス政権の犠牲者への追慕であった。

この日は国連が2005年に定めた「ホロコースト記念日」だった。1945年、当時のソ連軍がドイツのアウシュビッツに進駐し強制収用所を解放した日をたたえたのだ。だがドイツは96年からすでにローマン・ヘアツォーク大統領の提案により自主的にこの日を記念してきた。

ここまでは例年と変わらない追悼式だった。しかし、まもなく変わった。


ノルベルト・ラメルト下院議長の腕に頼りながら白髪混じりの老人が歩いて入ってきた。ヨアヒム・ガウク大統領はすぐそばを歩いて老人に付き添った。アンゲラ・メルケル首相が後ろに従った。老人は一種の「来賓席」格である最前席のまん中に座った。

老人は「レニングラード(現サンクトペテルブルク)封鎖」の生存者であり作家のダニール・グラーニン氏(95)だった。ドイツ軍は1941年9月にレニングラード郊外の周辺を占領した。それから始まった900日間の封鎖期間中に100万人が命を失った。空襲と砲撃のほかにも壊血病、飢餓、苛酷な寒さが死を招いた。犠牲者のほとんどは子供や女性たちだった。

演壇に上がった老作家はその時を思い出した。

「多くの人々が生き残ることができたのは、彼らが他の人々を救うことを願ったためです。他の人にパンを持ってきて水を運ぶために絶えず列をつくったためです。他の人々を救って助けようとした彼らが生き残って、また、助けられました」。

彼の記憶は惨状へと変わった。

「ドイツは確かにレニングラードの中でどんなことが広がるのか分かっていました。地獄のようなことが起きるということを。彼らはただ待っていただけです。私たちの限界は1カ月だったが、封鎖は900日間も続きました。どうしたらそのようなことが出来るのでしょうか。軍人は軍人と戦わなければならないのではないのですか。ところがドイツ軍は戦闘のために軍人ではなく飢餓を送りました」。

実際、レニングラード封鎖は歴史上類がないほど最悪の封鎖だと言われる。特に1942年1~2月には毎日700~1000人が亡くなったと記録されたほどだ。クラニン氏は「死体があまりに乾いたので、干した薪を積むように馬車に載せることができた」と記憶した。

彼はドイツ議会に立つことさえ容易ではなかったと吐露もした。「単に降参を待ちながら無数の人々が死ぬのを放っておいたドイツ人を、とても長く、また誰よりも許すことができませんでした。自然に時間が流れ、私の記憶も不明瞭になったが、私が記憶する限り戦争というのは、そういうものでした」。

老作家の演説の間じゅうドイツ議員は沈鬱な表情で聴いていた。彼の演説が終わった時、誰もが立ち上がって拍手をした。厳粛ながらも断固たる拍手であった。

この日、ガウク大統領はロシアのウラジミール・プーチン大統領に親書を送った。「ナチスによる残酷な戦争とレニングラードの人々の苦痛についてドイツに歴史的責務があることをよく分かっている。私たちは戦争後の苦痛を味わっている生存者には憐憫(れんびん)を、当時の損失には苦痛を共有する」という内容だった。

これに先立つ26日、ハンガリーのヤーノシュ・アーデル大統領も「アウシュビッツ収容所はハンガリーから数百キロ離れているが、私たちの歴史の一部だ。私たちの国民50万人がそこで非人間的な苦痛と侮辱の中で亡くなった」と話した。だが、非難よりも反省が先んじた。アーデル大統領は「ハンガリーがドイツに占領された70年前(1944年)、ナチスとこれに協力したハンガリー当局は半年でゲットー(ユダヤ人隔離区域)を完工して田舎に住むユダヤ人のほとんどをそこへ強制移住させた」と話した。事実上の「共犯」役を果たしたことに謝罪したのだ。恥ずかしい歴史を否認して消そうとする日本とは余りにも違う姿だった。

このような反省・追悼の雰囲気に対してキャサリン・アシュトン欧州連合(EU)外交安保代表は「私たちは欧州の歴史で、闇の時期に残忍に殺害されたすべての人を光栄だと考える」として「今日の行事は私たちの時代の偏見、人種差別に対抗する戦いを持続しなければならない必要性を悟らせる」とした。潘基文(パン・ギムン)国連事務総長も「とても言葉にできないような犯罪が繰り返されないように、そのような犯罪を継続して思い出さなければならない」と話した。



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