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安倍首相の歴史挑発に、松陰の影がちらつく(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

「松陰神社」入口の看板。吉田松陰と弟子である前原一誠の顔の絵。その前に立つ筆者パク・ポギュン論説委員。

日本の安倍晋三首相は、歴史を再構成している。侵略と膨張の記憶を脚色している。その野心は執拗だ。彼の歴史認識は、出身地域と絡み合っている。彼は山口県の出身だ。山口は日本列島の本州の南端にある。山口は旧長州藩だ。明治維新は日本の近代史だ。反転と曲折のドラマだった。そのドラマの主な演出・供給地が長州だ。

その真ん中に花火のように散った29年の人生がある。吉田松陰(1830~59)。松陰は、明治維新の理論と情熱を生み出した。人物を大挙して供給した。征韓論をつくった。この部分において松陰は拒否の対象だ。

安倍首相は松陰の崇拝者だ。安倍氏が揺らす旗は国粋主義の再現だ。復古の右傾化の旗は単純な突出ではない。その確信と信念の土台は何か。松陰と山口に答がある。


先月、私は山口に行った。山口の歴史の心臓は萩市。長州藩の都の地であった。山口県の南端の下関から列車で向かった。安倍首相の地方区(衆議院7選)が下関と長門市だ(山口4区)。JRの地方列車を乗り継いだ。車窓の外には韓国の東海(トンヘ、日本名・日本海)が見えた。

約2時間50分後、東萩駅に降り立った。人口5万人余り。小さな田舎の街だ。列車で一緒になった50代の事業家の日本人は断定した。彼は「松陰先生の萩の話が、日本の近代史」といった。萩の観光パンフレットは「維新の先覚者、吉田松陰」を紹介している。私の初めての追跡対象だ。

松下村塾。松陰の私説の学堂だ。ここは松陰を賛える複合空間だ。歴史館、記念館(宝物殿)、「松陰神社」でできている。境内の入口には大きな石碑がある。「明治維新胎動之地」と刻まれている。明治維新100周年の記念物だ。文字は当時の佐藤栄作首相の手書きだ。佐藤氏の故郷も山口だ。

「胎動之地」は松下村塾を意味する。明治維新(1868年)は日本の自負心だ。日本は植民地に転落しなかった。近代化に成功した。田舎の寺子屋は小さくて質素だ。木造平屋だ。国家の史跡だ。石碑(天皇陛下行幸啓)がある。1994年、明仁天皇の訪問記念碑だ。

「胎動之地」という称賛の表示だ。見栄えのしない寺子屋に、その用語がついた理由は明快だった。「講義室」は畳8枚の半分の大きさ(4.5坪)。松陰の肖像画、顔の銅像が置かれている。別の壁には顔写真が3列にわたりかかっている。松陰と12人の門下生たちだ。

一番上には久坂玄瑞、高衫晋作。代表する弟子だ。右側には木戸孝允、前原一誠。木戸は明治維新の3傑中の1人だ。三傑は最高功臣だ。次の列は伊藤博文、山縣有朋だ。明治時代の文武の中心人物だ。2人とも首相を歴任した。その横には3人の大臣(逓信・内務・司法)が続く。伊藤博文は韓国強占の象徴だ。山縣は長州軍閥の総帥だ。彼は韓国侵略の軍事力と人材を稼動させた。

写真を見回すと、驚きと奇異さが重なる。明治維新の主役たちであふれている。日本近代史の大物たちだ。

松陰の私塾運営は1年2カ月。監獄の講義まで合わせれば3年ほど(26~29歳)だ。門下生(92人)の中には大学設立者、鉄道、船舶技術の先駆者もいる。安倍首相は「松陰先生は3年間の教育で有能な人材をたくさん輩出した。小さな松下村塾が明治維新の胎動の地になった」とした(2006年議会発言)。

こんなことが可能だろうか。好奇心と疑問がつきまとう。田舎の寺小屋の1カ所で、一度に、短い期間に、20台後半の師匠によって。松陰の卓越したドラマだ。

松陰時代は徳川幕府の末期だ。1853年、フェリー提督の米国艦隊が現れた。江戸近海への黒船の衝撃は日本を揺さぶった。内憂外患に包まれた。天皇と将軍の間で、幕府の将軍と藩の大名の間で、藩と藩の間で、対外開放と閉鎖の間で。国論が分かれ、人が分かれた。尊王攘夷(幕府打倒により天皇を敬って外勢をはね除ける)の旗じるしは強まった。侍の刀が乱舞した。血が血を呼んだ。大乱の時代であった。

明治維新の主導地域は長州と薩摩だ。薩摩は九州の南の鹿児島県だ。日本の藩たちは新しい武器と新しい文物を受け入れた。競って人材を育てた。その姿は、朝鮮の衛正斥邪とは違った。朝鮮は、偽善的談論、人物貧困、閉鎖、文弱(文武の文にだけ熱中して、精神的にも身体的にも弱くなっている状態)のドロ沼に苦しんでいた。



安倍首相の歴史挑発に、松陰の影がちらつく(2)

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