18日午後、ソウル中区(チュング)のソウル図書館(旧ソウル市庁建物)の1階展示室では、頭髪が白くなった老人3人が映像物をじっくりと見ていた。鉱夫と看護師のドイツ派遣50周年を迎えて開かれた「半世紀ぶりに再び鳴り響くドイツのアリラン」というテーマの展示会でのことだ。映像は1963年にドイツへ派遣された鉱夫の姿や作業場面、朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領がドイツ鉱山へ慰問に行った場面(64年)などだった。
ドイツ派遣鉱夫の出身だと自身を紹介した男性〔75、ソウル江南区三成洞(カンナムグ・サムソンドン)〕は、「私もあそこにいたが、朴大統領と陸英修(ユク・ヨンス)女史を見て人々がみな泣いていた」と話した。するとそばにいたキム・オシク氏(71)とイ・ユンギュ氏(65)が「ドイツ派遣の先輩ですね」と挨拶をした。3人はそばに置かれたドイツ地図で自身が勤務していた地域を指しながら当時を振り返っていた。イ氏は「最も大変などん詰まりの仕事をしたが、当時の月給は韓国のお金で20万ウォン近くになった」として「休日も住宅撤去の仕事をしながらお金を集めて韓国に送った」と話した。キム氏は「私たちが送ったお金で国家の基盤施設を建てた」として「ドイツ派遣鉱夫と看護師を忘れないでほしい」と話していた。
29日まで開かれる今回の展示会には、国家記録院が過去2年間にドイツ鉱山記録保存所やドイツ病院協会などから収集した貴重な資料150点が公開された。初公開された文書の中には63年4月に在ドイツ韓国大使館の労務官がドイツの主な炭鉱会社に送った手紙がある。57年から日本人鉱夫を採用していたドイツ炭鉱会社がこれ以上彼らを雇用できなくなった事実を知り、日本人と同じ条件で韓国人鉱夫を採用してほしいという内容だった。この手紙にドイツ炭鉱会社側が「同等の条件で雇用する」という返事を送り、鉱夫のドイツ行きが決まった。これに伴い63年12月21日、ソウル金浦(キンポ)空港から鉱夫123人が米国アンカレッジを経てドイツのデュッセルドルフに行く飛行機に乗った。ドイツ派遣鉱夫の第1陣だった。以後77年まで計7936人の鉱夫がドイツ炭鉱で仕事をした。看護師は66年から76年まで計1万1057人が派遣された。
共に展示された記録の中には、韓国の鉱夫が勤務時に守るべき規則遵守の案内文、作業服の提供および洗濯案内文、賃金支給記録などがある。鉱夫が受け取った月給は650~950マルク(当時の韓国ウォンで13万~19万ウォン)で国内の会社員の月給の8倍にもなった。国家記録院特殊記録管理課のイ・カンス研究官は「ドイツの記録によれば当時ドイツの炭鉱会社は鉱夫の賃金を1~11等級(高いほど多い)に分けたが、韓国の鉱夫は3~5等級を受けていた」として「当時、ドイツ派遣鉱夫の人気が高く鉱夫ではない志願者が多いと見ると、ドイツの立場としては韓国の鉱夫の熟練度が低下すると判断したようだ」と説明した。初期にはドイツ語が下手で死体洗いなどの雑用をしなければならなかった看護師は、1カ月に約800マルク(約16万ウォン)を受け取った。国家記録院によればドイツに行った鉱夫と看護師が66~76年に韓国で送金したお金は1億1530万ドルに達する。このお金が韓国経済発展の基礎になったという説明だ。
ドイツ派遣鉱夫の出身だと自身を紹介した男性〔75、ソウル江南区三成洞(カンナムグ・サムソンドン)〕は、「私もあそこにいたが、朴大統領と陸英修(ユク・ヨンス)女史を見て人々がみな泣いていた」と話した。するとそばにいたキム・オシク氏(71)とイ・ユンギュ氏(65)が「ドイツ派遣の先輩ですね」と挨拶をした。3人はそばに置かれたドイツ地図で自身が勤務していた地域を指しながら当時を振り返っていた。イ氏は「最も大変などん詰まりの仕事をしたが、当時の月給は韓国のお金で20万ウォン近くになった」として「休日も住宅撤去の仕事をしながらお金を集めて韓国に送った」と話した。キム氏は「私たちが送ったお金で国家の基盤施設を建てた」として「ドイツ派遣鉱夫と看護師を忘れないでほしい」と話していた。
29日まで開かれる今回の展示会には、国家記録院が過去2年間にドイツ鉱山記録保存所やドイツ病院協会などから収集した貴重な資料150点が公開された。初公開された文書の中には63年4月に在ドイツ韓国大使館の労務官がドイツの主な炭鉱会社に送った手紙がある。57年から日本人鉱夫を採用していたドイツ炭鉱会社がこれ以上彼らを雇用できなくなった事実を知り、日本人と同じ条件で韓国人鉱夫を採用してほしいという内容だった。この手紙にドイツ炭鉱会社側が「同等の条件で雇用する」という返事を送り、鉱夫のドイツ行きが決まった。これに伴い63年12月21日、ソウル金浦(キンポ)空港から鉱夫123人が米国アンカレッジを経てドイツのデュッセルドルフに行く飛行機に乗った。ドイツ派遣鉱夫の第1陣だった。以後77年まで計7936人の鉱夫がドイツ炭鉱で仕事をした。看護師は66年から76年まで計1万1057人が派遣された。
共に展示された記録の中には、韓国の鉱夫が勤務時に守るべき規則遵守の案内文、作業服の提供および洗濯案内文、賃金支給記録などがある。鉱夫が受け取った月給は650~950マルク(当時の韓国ウォンで13万~19万ウォン)で国内の会社員の月給の8倍にもなった。国家記録院特殊記録管理課のイ・カンス研究官は「ドイツの記録によれば当時ドイツの炭鉱会社は鉱夫の賃金を1~11等級(高いほど多い)に分けたが、韓国の鉱夫は3~5等級を受けていた」として「当時、ドイツ派遣鉱夫の人気が高く鉱夫ではない志願者が多いと見ると、ドイツの立場としては韓国の鉱夫の熟練度が低下すると判断したようだ」と説明した。初期にはドイツ語が下手で死体洗いなどの雑用をしなければならなかった看護師は、1カ月に約800マルク(約16万ウォン)を受け取った。国家記録院によればドイツに行った鉱夫と看護師が66~76年に韓国で送金したお金は1億1530万ドルに達する。このお金が韓国経済発展の基礎になったという説明だ。
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