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<韓日中共同歴史教科書・論戦2>可能でもなく、望ましくもない

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
▼イム・ジヒョン漢陽(ハンヤン)大学史学科教授

歴史に対する権力の関心がこの1カ月で急に高まっている。青瓦台(チョンワデ、大統領府)が国史の修能(日本の大学入試センター試験に相当)の必修課目化を議題化したことを始め、政権与党の「国政国史教科書」の公論化に続いて再び青瓦台が北東アジア共同歴史教科書編さんを提案した。お金と開発に向いていた李明博(イ・ミョンバク)政権の物神主義に比べれば、朴槿恵(パク・クネ)政権の歴史に対する関心と教養は明らかに引き立って見える。韓国史や中国史、日本史のような個別の「国史」の境界を跳び越える共同歴史教科書を通じて、東アジアの平和と協力を指向するという意志にも感心する。しかし、首をかしげてしまうのは仕方がない。

認識論的次元でこの提案は、歴史には1つの「正解」だけがありその「正解」は国家が公認しなければならないという発想から出発している。国家が主導して北東アジア共同歴史教科書を作ろうという提案は、「国政」教科書を通じて正解を教えて選択回答型の修能試験で正解をとれば良いという発想が東アジアレベルへと拡大した結果だ。正解コンプレックスをあおって国家が歴史解釈を独占するという発想こそ、全体主義時代の経験の遺産にすぎない。


実際にそれは、可能なことでも望ましいことでもない。金星出版社の教科書や教学社の教科書論争であらわれたように、国内ですら皆が納得できる歴史の正解を探すことはほとんど不可能だ。まして偏狭な国粋主義的歴史解釈が民族主義的対立の根源となっている東アジアの現実で、当事国のだれもが同意する共同教科書をつくろうという提案は、とても純真な発想か、非常に軽薄な政治工学の産物だと見なされるしかない。

さらに一方では、修能必修課目化と国定教科書回帰など国史教育強化を議題化しながら東アジア共同教科書だとは、少々あきれてしまう。さらに高句麗史、日本軍慰安婦などをめぐる過去の歴史論争だけでなく独島(ドクト、日本名・竹島)や尖閣諸島(中国名・釣魚島)などの領土紛争は、国家が正解だと公認する東アジア共同歴史教科書を作るからといって解決できる性質のものではない。

これに関連して、バルカンの歴史家たちの作業は非常に示唆的だ。旧ユーゴ内戦が残酷な民族浄化で幕を下ろした直後、彼らは自民族中心主義の偏狭な見解で隣民族に対する偏見をあおった「国史」教科書を作った歴史家自身たちこそが戦犯だという骨にしみた反省から、歴史教育を考え直し始めた。

彼らが行った初めての作業は、共同教科書ではなく互いに違う立場で書かれた資料と読み物を中心に、共通の歴史副教材を作るというものだった。自民族中心的な国史記述を相対化して、バルカン地域共通の歴史的経験を教えるという意志の表現だった。

同時に、歴史教師の年数方式に斬新な変化を呼び起こした。例えばギリシャ・ブルガリア・クロアチア・トルコの専門歴史家が、アルバニアの歴史教師の研修に参加してアルバニアの国家形成についての隣国の歴史的見解を講義するという形だった。韓国の歴史教師の研修に、日本と中国の専門歴史家が参加するようなものだ。

問題は、歴史解釈が同じなのか違うのかではない。その違いが敵対的か、非敵対的なのかだ。「国史」の民族主義的な呪術から解放されれば、歴史解釈の差は対立の原因ではなく思想的・政治的多様性の表現になるのだ。大切なのは、共同教科書ではない。トランスナショナルな歴史認識が「国史」の鋳型を代える時、東アジア共同教科書はなくても良いのであり、またないからこそ良いのだ。



<韓日中共同歴史教科書・論戦1>3国が共に未来を描く土台だ(1)

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