最近のウォールストリートジャーナル(WSJ)の報道によれば、韓国の英語私教育の市場は1年に19兆ウォン(約1兆8000億円)規模に達する。それでも、ある国際学業達成度の基準によれば韓国人の英語の実力は中間レベルだという。韓国は60カ国中24位を記録したが、経済水準が韓国よりも低いインドネシアが25位に迫っているし、ベトナムも28位であった。
韓国の英語教育が大きな問題であることは誰でも知っている事実だが、原因についての議論は貧弱だ。解決法が見えるはずがない。原因は何か。
一般的に見ると、教育政策が期待ほど効果を上げられない場合、教える人の能力あるいは教授法や学習者の努力不足から原因を探すことができる。普通は、教える人と習う人双方に何かが不足しているから効果がないということだ。
韓国の英語教育に不足しているものを探すためには「英語教育というのは何か」から考えてみる必要がある。英語は、韓国人にとって言語学的距離がとても遠い外国語だ。ドイツ語・フランス語とは違い、韓国語と英語の間には共通点を探すことはできない。語族や文化圏も違う上に歴史的交流もなく、共通文法・語彙も全くなくて社会言語学的な差も大きい。それで韓国人が英語を学ぶのに大きな負担を感じるのだ。
常識だが、難しいことを学ぶためには多くの練習が必須であり、結局は時間をたくさんつぎ込まなければならない。英語も同じだ。毎日すべきこととしたいことが多いという現実で、特に手間と時間をたくさん費やして英語を学習するというのは、なかなか容易ではない。
ところで韓国の学校では、英語だけでなくほかの科目もあるので英語をしっかり学ぶのに必要な時間を確保するのがほとんど不可能なように思える。学校でできなければ学校の外で機会を探すことになり、それがまさに塾市場の原動力となっている。韓国社会は英語の実力を要求しているが、学校でそれに必要なだけの学習の機会を与えることができなければ、学校の外で機会を探すほかはないからだ。
もちろん学習時間のほかにも教材・教授法・教員の能力も影響を及ぼす。昔は英語の教科書にぎこちない表現もあって、1クラスの生徒が60名もいて、さらに教員が英語を学ぶ機会も少なかったという。だが1990年代に始まった英語教育改革を通じて、こうした問題はかなり改善されたしネイティブスピーカーの補助教員採用のような画期的な改革も行われた。
しかしここで抜けている重要なことがある。英語の必要性と、英語を学ぼうとする動機だ。現在の英語教育パラダイムで、英語の実力は大韓民国の国民が持つべきスペックに過ぎない。そのスペックがなければ立ち遅れるという恐怖感のためにお金をつぎ込み私教育でこれを解決する。英語自体に対する投資ではなく、英語スペックを取得するための費用なのである。
問題は、韓国で通用するスペック水準の英語では、実際に外国人と意思疎通するのにあまり役立たないという点だ。それで国際学業達成度基準で英語の実力が投資した分ほど高く出てこないのだ。
結局、スペックが問題ならばスペックというものを再考する必要がある。英語が韓国人にとって最も重要な外国語だということには間違いないが、それでもすべての国民がみな英語を習わなければならないのではない。隣国の言語である中国語・日本語も重要だ。外国語でなくとも必要な能力は多い。
このように見れば、英語教育問題の解決策は意外に簡単だ。英語を必須ではなく選択にすることだ。そのような場合、英語の勉強への投資がスペックのための教育ではなく、英語教育の胎生的困難を考慮した実のある方向に流れることができる。もちろん英語をあきらめた人が多くなって韓国人の平均英語実力が落ちる可能性もあるだろうが、重要なことは単純な平均ではない。しっかりした英語の活用人口の形成だ。
英語をスペックから解放させない限り、英語教育への失望とそれに対するうんざりした議論は続くだろう。
ロバート・パウザーソウル大学国語教育科教授(米国ミシガン大学で東洋語文学学士・言語学修士、アイルランドのトリニティ大学で言語学博士を取得。日本の京都大学を経てソウル大学に赴任)
韓国の英語教育が大きな問題であることは誰でも知っている事実だが、原因についての議論は貧弱だ。解決法が見えるはずがない。原因は何か。
一般的に見ると、教育政策が期待ほど効果を上げられない場合、教える人の能力あるいは教授法や学習者の努力不足から原因を探すことができる。普通は、教える人と習う人双方に何かが不足しているから効果がないということだ。
韓国の英語教育に不足しているものを探すためには「英語教育というのは何か」から考えてみる必要がある。英語は、韓国人にとって言語学的距離がとても遠い外国語だ。ドイツ語・フランス語とは違い、韓国語と英語の間には共通点を探すことはできない。語族や文化圏も違う上に歴史的交流もなく、共通文法・語彙も全くなくて社会言語学的な差も大きい。それで韓国人が英語を学ぶのに大きな負担を感じるのだ。
常識だが、難しいことを学ぶためには多くの練習が必須であり、結局は時間をたくさんつぎ込まなければならない。英語も同じだ。毎日すべきこととしたいことが多いという現実で、特に手間と時間をたくさん費やして英語を学習するというのは、なかなか容易ではない。
ところで韓国の学校では、英語だけでなくほかの科目もあるので英語をしっかり学ぶのに必要な時間を確保するのがほとんど不可能なように思える。学校でできなければ学校の外で機会を探すことになり、それがまさに塾市場の原動力となっている。韓国社会は英語の実力を要求しているが、学校でそれに必要なだけの学習の機会を与えることができなければ、学校の外で機会を探すほかはないからだ。
もちろん学習時間のほかにも教材・教授法・教員の能力も影響を及ぼす。昔は英語の教科書にぎこちない表現もあって、1クラスの生徒が60名もいて、さらに教員が英語を学ぶ機会も少なかったという。だが1990年代に始まった英語教育改革を通じて、こうした問題はかなり改善されたしネイティブスピーカーの補助教員採用のような画期的な改革も行われた。
しかしここで抜けている重要なことがある。英語の必要性と、英語を学ぼうとする動機だ。現在の英語教育パラダイムで、英語の実力は大韓民国の国民が持つべきスペックに過ぎない。そのスペックがなければ立ち遅れるという恐怖感のためにお金をつぎ込み私教育でこれを解決する。英語自体に対する投資ではなく、英語スペックを取得するための費用なのである。
問題は、韓国で通用するスペック水準の英語では、実際に外国人と意思疎通するのにあまり役立たないという点だ。それで国際学業達成度基準で英語の実力が投資した分ほど高く出てこないのだ。
結局、スペックが問題ならばスペックというものを再考する必要がある。英語が韓国人にとって最も重要な外国語だということには間違いないが、それでもすべての国民がみな英語を習わなければならないのではない。隣国の言語である中国語・日本語も重要だ。外国語でなくとも必要な能力は多い。
このように見れば、英語教育問題の解決策は意外に簡単だ。英語を必須ではなく選択にすることだ。そのような場合、英語の勉強への投資がスペックのための教育ではなく、英語教育の胎生的困難を考慮した実のある方向に流れることができる。もちろん英語をあきらめた人が多くなって韓国人の平均英語実力が落ちる可能性もあるだろうが、重要なことは単純な平均ではない。しっかりした英語の活用人口の形成だ。
英語をスペックから解放させない限り、英語教育への失望とそれに対するうんざりした議論は続くだろう。
ロバート・パウザーソウル大学国語教育科教授(米国ミシガン大学で東洋語文学学士・言語学修士、アイルランドのトリニティ大学で言語学博士を取得。日本の京都大学を経てソウル大学に赴任)
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