運良く第2次世界大戦の戦勝国に入ったフランスは、米国・英国・ソ連とともにドイツ分割占領国の一つとなった。フランスの占領政策の核心は、ドイツが軍事・経済大国として再起するのを永久に不可能にさせることだった。1949年に西ドイツの首相となったコンラート・アデナウアーは、フランスのドイツ恐怖症を解消しなければドイツは欧州共同体の中で永遠に声を出すことはできないと考えた。アデナウアーは「フランス政策」を西ドイツの外交の軸とした。アデナウアーは石炭と工業の中心地ザールの自治とルールの国際管理を受け入れた。フランスが警戒する統一を当分は追求せず、中部欧州での覇権国の野望を捨てると宣言した。それは「ドイツの欧州」から「欧州のドイツ」への対外政策の転換だった。
フランスもドイツ、少なくとも西ドイツに対する認識を変え始め、1952年にジャン・モネが下絵を描き、外相ロベール・シューマンが提案した欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。これはフランスが主導した信頼を築くための画期的なプロジェクトだった。石炭鉄鋼共同体は交渉過程から西ドイツの主権と平等を認めるものだった。1960年代まで西ドイツではナチの蛮行に対する反省と謝罪は手ぬるく、今日の日本のように保守陣営はドイツの過去を否定し、美化していた。こうした中でアデナウアーがフランスとの大胆な和解政策を推進したのは注目に値する。
【コラム】日本対策、独仏和解から学ぼう=韓国(2)
フランスもドイツ、少なくとも西ドイツに対する認識を変え始め、1952年にジャン・モネが下絵を描き、外相ロベール・シューマンが提案した欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が発足した。これはフランスが主導した信頼を築くための画期的なプロジェクトだった。石炭鉄鋼共同体は交渉過程から西ドイツの主権と平等を認めるものだった。1960年代まで西ドイツではナチの蛮行に対する反省と謝罪は手ぬるく、今日の日本のように保守陣営はドイツの過去を否定し、美化していた。こうした中でアデナウアーがフランスとの大胆な和解政策を推進したのは注目に値する。
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