エドアルド・キム氏(48)
「パンガプスムニダ」。カザフスタンの旧首都アルマトイ市にあるテクノドームの会長執務室で会ったキム会長は、記者にたどたどしい韓国語であいさつし、「韓国語は話せない」と伝えた。しかしロシア語で行われたインタビュー中、キム会長は「母国語は忘れたが、伝統と勤勉さ、誠実さという韓国人の文化は私の体の中に残っている」とし、韓国人であることを誇った。
キム会長は1987年、アルマトイ政治大学を卒業した。国立科学院地質学研究所が最初の職場だった。しかし90年代初期、ソ連と東欧共産圏の崩壊という急変がキムさんの人生を変えた。
90年に職場を離れたキムさんは貿易会社を設立した。家を売って確保した2万ドルでトルコから輸入したチョコレートを売ったが、深刻なインフレで大きな損失を出し、事業をたたんだ。やむを得ず、カザフスタンの2大電子製品流通会社Sulpakという会社に入り、販売員生活を始めた。
独特の勤勉さと誠実さで実力が認められたキム会長は01年、テクノドームを設立し、独立を宣言した。職員20人でスタートした会社は12年間で22都市に約50店舗、約4500人の職員を保有するカザフスタン最大の電子製品流通会社となった。
成功の秘訣を尋ねる質問に、キムさんは「20%が個人の能力なら、80%は高麗人の親から受け継いだ勤勉さのおかげ」とし、「サムスン・LG・大宇などの韓国企業がカザフスタンに進出し、高麗人の私と縁を結んで一緒に成長できたのは大きな幸運」と述べた。
キム会長の成功は、今年で中央アジア移住150周年を迎えた高麗人の強靭な生命力と重なる。キム会長の家族の移住の歴史は祖父の時代に始まった。祖父が1900年代初めにロシア沿海州に移住し、1935年にウスリースクでキム会長の父が生まれた。しかし2年後の37年、スターリンの強制移住政策が始まり、試練が訪れた。祖父は当時3歳だったキム会長の父を抱いて、初めて中央アジアヘ向かった。寒さと空腹に苦しみながらも現地に徐々に定着し、キム会長の父はチェチェンのカフカス地域で学業を終えることができた。キム会長の母もウズベキスタンに強制移住した高麗人だった。両親ともにモスクワ大を卒業したエリートだったが、高麗人という胎生的な限界のために人生は平坦でなかった。
実家があったウズベキスタンで生まれたキム会長は、幼い頃からタジキスタン、カフカス地域、ウズベキスタンのアルマトイなどを転々とした。キム会長は自ら「その間、ノマド(Nomad、遊牧民)のような生活を送ってきた」と記憶している。
慣れない環境と悪条件の中でも屈することなく定着してきた高麗人とキム会長。キム会長は「石油・ガス・鉄鋼・銅など資源分野で韓国とカザフスタンは協力する部分が多いが、人材が不足している」と話した。また「韓国の発展した科学・技術分野の知識とノウハウを若い高麗人に教育、支援すれば、大きなエネルギーになるだろう」と語った。
この記事を読んで…