(左上)ヒトラーから受けた優勝記念の苗木は周囲3メートル、高さ17メートルに育った。現在ソウル万里洞の孫基禎体育公園にある。(右上)孫基禎がベルリンで韓国の知人に送ったハガキ。「悲しい」という3文字が彼の心情を語っている。(下)1988年ソウル五輪の開幕式で聖火リレーをする孫基禎先生。
韓国人で初めて五輪優勝を果たしながらも敗残兵のようにうなだれていた孫基禎の表情は、説明の必要がない生きた歴史教育だ。「悲しい」という3文字だけを書いてベルリンから韓国の知人に送った孫基禎のハガキは、当時の彼の心をそのまま表している。
優勝した後、日本選手団が準備した祝勝会の代わりに、ベルリンに居住するアン・ボングン氏(安重根の親戚)の家に行き、生まれて初めて太極旗を見て戦慄したというエピソードもある。ベルリン五輪を終えて汝矣島空港に帰国した直後、警察に囚人のように連れられていく写真も印象的だ。
記念館では、ベルリンで孫基禎が42.195キロをどんな気持ちと戦略に走ったのか、生き生きと感じることができる。孫基禎にオーバーペースになるなと助言しながら折り返し地点まで並んで走った英マラソンランナーのアーネスト・ハーパー、40キロ地点で孫基禎に水を渡した中年婦人ルイジェ・ネフら優勝を支えた人たちに関する資料もある。決勝ラインを通過する瞬間、日本とドイツのアナウンサーの興奮した声も聞くことができる。
孫基禎先生の孫のイ・ジュンスン孫基禎記念財団事務総長は「韓国は植民地になったから発展したと考えている日本人がいる。ここに来れば植民地というものが韓国人にとってどういう意味か、説明しなくても分かるだろう。しかし祖父が日本に抵抗した英雄として美化されることは望まない。平和、走る自由、あきらめない精神と不屈の闘志。それが祖父が残そうとした遺産」と話した。
<私たちがよく知らない孫基禎>
◆孫基禎は幼い頃、スケートをすることを望んだ。「スケートを買うお金があったならスケート選手になっていたかもしれない」と話した。
◆五輪優勝後、日本の警察は孫基禎に影のように付いて監視した。ヤンジョン高の級友との祝賀茶話会も開くことができなかった。
◆孫基禎は5000メートル、1万メートルなど長距離はもちろん、400メートル、800メートル、1500メートルにも出場し、各種大会で優勝した。
◆表彰台で君が代を聞きながら孫基禎は「二度と日本のために走らない」と決心し、引退した。
◆孫基禎は1937年に明治大学に入学した。入学条件は「二度と陸上はしない」だった。
◆孫基禎が指導したソ・ユンボクは1948年ボストンマラソンで優勝した。1950年大会当時はハム・ギヨン、ソン・ギルユン、チェ・ユンチルが1-3位になった。
◆1992年バルセロナ現地で黄永祚のマラソン優勝を応援した。8月9日、孫基禎がベルリンで優勝した日だ。
「悲しい」…77年前の孫基禎の悲痛(1)
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