国民性とか民族性という用語は、最近のようなグローバル時代ではあまり似合わない。サイバー国家まで登場した際に、産業化以前の単一民族国家を前提としたこういった言葉に執着すれば、時代錯誤的だという非難はさけられない。たとえば米国みたいな国に、民族性がどこにあるのか。
それでも我々はこのような言葉ををよく使う。例えば、ある目的で大衆を煽動したり、一口に批判する時、そして外国を称賛、あるいは非難する時これを使う。
もちろん我々が皮相的に知っている民族性や国民性は、大慨先入観の産物だ。帝国主義時代の御用学者らが自分らの民族の優越性を強調し、他民族を無視するため勝手に規定した概念が、いまだ偏見として残っている場合が多い。
しかし民族性は普通、自然環境と密接な関係があるというのが定説だ。人間も動物である以上、周辺環境に適応しながら精神と身体が進化してきたことは当然なことだ。
フランスの啓蒙主義思想家であるモンテスキューは『法の精神』で、「北方民族は気候が寒いため、強くて勇気のある民族になり、南方民族は暑い天気なので、感受性が鋭敏で力と勇気が萎縮する」とし、気候が民族性に絶対的な影響をおよぼすと主張した。
このような自然的要因に社会・歴史的要因が結合して、文明が発達し国民性も形成されるのである。「自然の挑戦に対する人間の応戦が歴史発展の原動力」というアーノルド・トインビーの『歴史の研究』や「気候が人間の能率を支配する」とのサミュエル・ハンティングトンの『文明と気候』などは、気候と文明、ひいては気候と国民性の関係をよく説明している。
韓国民族が勤勉で、心あたたかいということに意義を唱える人はいないだろう。もちろん、長い間の悲惨と収奪の歴史のため「恨(ハン)」という因子が追加されはしたが、韓国の国民性の原形質は、「いんぎんと情」で代弁される温和なものだった。
ハンティングトンの環境決定論のためだけではないだろうが、四季がはっきりしている温帯気候の影響は否定できない。
しかし、最近、我々の気候パターンが変わった。大雪と酷寒、日照りと暴雨、酷暑で極端な様相を見せている。温帯気候は消えさり、熱帯雨林気候とツンドラ気候だけが残った。今春は砂漠気候だった。
いつからか、韓国の国民性に「鍋」「過激」「一か八か」などの修飾語がつき、今や気候が逆に国民性に似ていく感じだ。天気までも中間はなく、両極端に分かれ、ひどくなっていくようで切ない。
それでも我々はこのような言葉ををよく使う。例えば、ある目的で大衆を煽動したり、一口に批判する時、そして外国を称賛、あるいは非難する時これを使う。
もちろん我々が皮相的に知っている民族性や国民性は、大慨先入観の産物だ。帝国主義時代の御用学者らが自分らの民族の優越性を強調し、他民族を無視するため勝手に規定した概念が、いまだ偏見として残っている場合が多い。
しかし民族性は普通、自然環境と密接な関係があるというのが定説だ。人間も動物である以上、周辺環境に適応しながら精神と身体が進化してきたことは当然なことだ。
フランスの啓蒙主義思想家であるモンテスキューは『法の精神』で、「北方民族は気候が寒いため、強くて勇気のある民族になり、南方民族は暑い天気なので、感受性が鋭敏で力と勇気が萎縮する」とし、気候が民族性に絶対的な影響をおよぼすと主張した。
このような自然的要因に社会・歴史的要因が結合して、文明が発達し国民性も形成されるのである。「自然の挑戦に対する人間の応戦が歴史発展の原動力」というアーノルド・トインビーの『歴史の研究』や「気候が人間の能率を支配する」とのサミュエル・ハンティングトンの『文明と気候』などは、気候と文明、ひいては気候と国民性の関係をよく説明している。
韓国民族が勤勉で、心あたたかいということに意義を唱える人はいないだろう。もちろん、長い間の悲惨と収奪の歴史のため「恨(ハン)」という因子が追加されはしたが、韓国の国民性の原形質は、「いんぎんと情」で代弁される温和なものだった。
ハンティングトンの環境決定論のためだけではないだろうが、四季がはっきりしている温帯気候の影響は否定できない。
しかし、最近、我々の気候パターンが変わった。大雪と酷寒、日照りと暴雨、酷暑で極端な様相を見せている。温帯気候は消えさり、熱帯雨林気候とツンドラ気候だけが残った。今春は砂漠気候だった。
いつからか、韓国の国民性に「鍋」「過激」「一か八か」などの修飾語がつき、今や気候が逆に国民性に似ていく感じだ。天気までも中間はなく、両極端に分かれ、ひどくなっていくようで切ない。
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