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<東アジア杯>きょう韓日戦…韓国のパワーか、日本のテクニックか(1)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版
東アジアカップ2013のハイライトは28日午後8時、ソウル蚕室(チャムシル)総合運動場で開かれる韓日戦だ。洪明甫(ホン・ミョンボ)監督(44)が率いる韓国はオーストラリアと中国を相手に2回ともすべて0-0で無得点の引き分けに終わった。オーストラリアとの初戦では21本のシュートを放って試合を圧倒した。対中国戦ではオーストラリア戦に出場しなかった選手を中心にベスト11を構成して戦力を点検した。洪監督は2試合を通じて最精鋭を選んで韓日戦に臨むつもりだ。

一方の日本は中国との初戦で乱打戦の末3-3で引き分け、オーストラリアとの第2戦では一進一退の攻防戦のあげく3-2で勝利をおさめた。日本は1勝1引き分けで1位を走っているが、2引き分けの韓国も日本との最終戦で勝利すれば大会チャンピオンに上がることができる。

だが、韓日戦が重要なのは優勝カップがかかっているためだけではない。他のすべての試合に負けても韓日戦だけ勝てればよい。反対にたとえ優勝できる場面でも韓日戦で敗れるならば何の意味もない。それがまさに韓日戦だ。


◆韓日戦の思い出

歴史上初めての韓日戦は1954年3月7日、東京で開かれた。解放から10年も経っていない時期だった。54年スイス・ワールドカップ(W杯)アジア最終予選だった。日本とホームアンドアウエー方式で争い、勝てば史上初めてワールドカップに進出することができた。サッカーはホーム試合が絶対的に有利だが「日本人が韓半島の地を踏むのは許せない」という李承晩(イ・スンマン)大統領の意志のほうが強かった。韓国は日本で2試合すべて行わなければならなかった。事実、日本への出国許可を受けるのも容易ではなかった。

イ・ユヒョン監督は「日本に敗れれば選手団全員、玄海灘に身を投げる」という悲壮な覚悟を明らかにして決戦に出た。韓国は悪天候の中で開かれた最初の試合で、体力と体格などフィジカルな面はもちろん、テクニックでも相手を圧倒して5-1の大勝をおさめた。韓国は1週間後に開かれた第2戦では引き分けを記録して1勝1引き分けで史上初のワールドカップ本戦進出という快挙を成し遂げた。

その後しばらく日本サッカーは韓国の相手ではなかった。ライバルというよりは餌食といったほうがよかった。80年代までは48戦30勝11引き分け7敗で勝率が62.5%に達した。10回戦えば6~7回以上は勝ち、引き分けたり負けるのが3、4回回程度だった。だが、90年を基点に流れが変わった。90年代以後には27戦10勝11引き分け6敗で勝率が37.0%に大きく落ちた。歴代戦績は75戦40勝22引き分け13敗だ。

日本の1万円券紙幣には福沢諭吉という日本の近代思想家が印刷されている。大東亜共栄圏を夢見た日本帝国主義者などの精神的師匠だ。彼の代表的理論は“脱亜入欧論”だ。アジアを抜け出して欧州が歩く道に沿って行かなければならないという近代化論だ。福沢の思想は、歳月を越えて80年代の日本サッカーに組み入れられた。「アジアで競争するのではなく目を欧州サッカーに向けて彼らと肩を並べる」という“脱亜入欧”が日本サッカーの目標でありスローガンになった。日本は自尊心を捨ててブラジル出身ミッドフィルダーのラモス瑠偉(56)やストライカーの呂比須ワグナー(44)ら能力のあるブラジル出身の外国人選手に代表チームの門戸を開いた。

緻密な準備過程を経て93年にはJリーグがスタートした。Jリーグのスタートと共に百年構想という長期発展計画も立てられた。体力は弱く戦術は教科書的だったため、どのように動くのか透けて見えた日本サッカーがこの時から変わり始めた。93年のカタール・ドーハで開かれた94年米国ワールドカップのアジア最終予選で韓国はかろうじて本戦進出に成功した。韓国では「ドーハの奇跡」と呼ばれている事件だ。日本ではこれを「ドーハの悲劇」と称する。日本が韓国をほとんど追いついたことを象徴的に見せた大会であった。(中央SUNDAY第333号)



<東アジア杯>きょう韓日戦…韓国のパワーか、日本のテクニックか(2)

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