燕山君(ヨンサングン)の時代である1498年、勲旧派と士林派の対立の中で戊午史禍(大規模な粛清)が広がった。成宗実録を編纂する過程で、士官のキム・イルソンが、実録の基礎となる史草に含めたキム・ジョンシクの“弔義帝文”が発端となった。世祖の即位過程で亡くなった端宗を、項羽によって死にいたった楚の国の義帝に例えた文だと勲旧派で問題にして、キム・イルソンら士林派は大きな災いを被った。朝鮮王朝実録の『燕山30巻』では戊午党派争いの始まりを「(ユ・ジャグァンが)ある日は袖の中から1冊の冊子を出すとまさにジョンジクの文集だった」と記述している。
党派争いは朝鮮時代のエリート集団内部で権力をめぐって広がった極端な政治闘争だ。韓国現代史で政権が交代した後、前の政権を狙った検察の捜査や特別検事制度によって、過去の実力者が監獄の苦しみを体験したり被選挙権をはく奪されて政治的な島流しをさせられるのが現代版の党派争いだというなら党派争いだろう。
史草であらわになった朝鮮時代の党派争いは、これだけではない。実録の『太祖3巻』には高麗時代末の士官イ・ヘンイが禑王(ウワン)・昌王(チャンワン)を太祖李成桂(イ・ソンゲ)が殺したと史草に記載して明るみになった波紋が登場する。実録は「禑と昌父子は、大小官僚たちが刑に処することを求めるので恭讓王(コンヤンワン)がこれを允許(許可)したが、イ・ヘンイが事件の顛末をありのままに書かずに取り調べを受けることになった」と記録した。
しかし2007年の南北首脳会談対話録をめぐって広がった政界の攻防は、朝鮮時代の党派争いにも劣る。当時は存在する史草をめぐって権力争いと王朝の正統性に対する死を覚悟した決断の闘争が広がった。ところが2013年の韓国政治は、実体ではない解釈と、存在しない史草をめぐって争っていた。始めから大韓民国の未来ではない過去をめぐって正面対立すると、この過程で首脳会談対話録が公開されるという外交史上前例のない事態が広がった。さらに「西海(ソヘ、黄海)北方限界線(NLL)を放棄したのではないか」という解釈論争を展開し、しまいには対話録があるべき場所にないというあきれた結論に終わった。したがって今の“史草ゲート”は朋党政治(主義や利害を共にする者が集まって行う政治)の赤裸々な事例である士禍(官僚への粛清)ではなく、解釈の幽霊、存在することもない幽霊をめぐって戦った“えせ史禍(史草が発端の災い)”に過ぎない。500年余り後に私たちの子孫が『大韓民国実録』をのぞいて見たら、これをどう評価するだろうか。
政治の役割は多様なイシューのうちで今私たちに何が重要なのかというアジェンダを設定して、この過程でもろもろの集団が衝突する利害関係を合理的に調整するところにある。ところが国民でなく自分に重要なものを要求して支持層間の対立を激化させれば、政治でなく政争という。今回がそうだ。
国民に解釈争いを押し付けておいて終盤にはないという。もう与野党は相手を狙った責任論に乗り出している。しかし責任の所在を問い詰めるのに先立ち、国民が政治自体に感じている非常識さは、かなり長続きするだろう。
チェ・ビョンゴン政治国際部門次長
党派争いは朝鮮時代のエリート集団内部で権力をめぐって広がった極端な政治闘争だ。韓国現代史で政権が交代した後、前の政権を狙った検察の捜査や特別検事制度によって、過去の実力者が監獄の苦しみを体験したり被選挙権をはく奪されて政治的な島流しをさせられるのが現代版の党派争いだというなら党派争いだろう。
史草であらわになった朝鮮時代の党派争いは、これだけではない。実録の『太祖3巻』には高麗時代末の士官イ・ヘンイが禑王(ウワン)・昌王(チャンワン)を太祖李成桂(イ・ソンゲ)が殺したと史草に記載して明るみになった波紋が登場する。実録は「禑と昌父子は、大小官僚たちが刑に処することを求めるので恭讓王(コンヤンワン)がこれを允許(許可)したが、イ・ヘンイが事件の顛末をありのままに書かずに取り調べを受けることになった」と記録した。
しかし2007年の南北首脳会談対話録をめぐって広がった政界の攻防は、朝鮮時代の党派争いにも劣る。当時は存在する史草をめぐって権力争いと王朝の正統性に対する死を覚悟した決断の闘争が広がった。ところが2013年の韓国政治は、実体ではない解釈と、存在しない史草をめぐって争っていた。始めから大韓民国の未来ではない過去をめぐって正面対立すると、この過程で首脳会談対話録が公開されるという外交史上前例のない事態が広がった。さらに「西海(ソヘ、黄海)北方限界線(NLL)を放棄したのではないか」という解釈論争を展開し、しまいには対話録があるべき場所にないというあきれた結論に終わった。したがって今の“史草ゲート”は朋党政治(主義や利害を共にする者が集まって行う政治)の赤裸々な事例である士禍(官僚への粛清)ではなく、解釈の幽霊、存在することもない幽霊をめぐって戦った“えせ史禍(史草が発端の災い)”に過ぎない。500年余り後に私たちの子孫が『大韓民国実録』をのぞいて見たら、これをどう評価するだろうか。
政治の役割は多様なイシューのうちで今私たちに何が重要なのかというアジェンダを設定して、この過程でもろもろの集団が衝突する利害関係を合理的に調整するところにある。ところが国民でなく自分に重要なものを要求して支持層間の対立を激化させれば、政治でなく政争という。今回がそうだ。
国民に解釈争いを押し付けておいて終盤にはないという。もう与野党は相手を狙った責任論に乗り出している。しかし責任の所在を問い詰めるのに先立ち、国民が政治自体に感じている非常識さは、かなり長続きするだろう。
チェ・ビョンゴン政治国際部門次長
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