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【コラム】これがみな映画のせいならば…凶悪事件との関係を考える

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
数年前に公開された外国産のホラー映画の題名が先週、ぞっとするような殺人事件ニュースと並んでインターネットの主な検索語に浮上していた。この映画の題名を新聞紙上で全く言及しなかった中央日報とは違い、一部では事件と大きな関係があるように感じさせる報道をしていた。

ところでこの報道を注意深く見てみると、この映画の名前は犯行を自白した男性の口から出たものではない。一問一答で整理された報道内容によれば、彼はこの映画を見たかという質問に「見た」と答え、どんな感じを受けたかという質問に「ただこういう映画もあるんだなと思った」と話した。また、前の問答で普段からよく見ていた映画として“ホラー映画”を挙げ、実行してみたいと思ったかという質問に“1回ぐらいは”と答えたのが全て。該当映画を擁護するつもりは全くない。だが、この問答を土台に、特定映画がこの事件に影響を及ぼしたとすれば、それはこじつけ的な考えだ。

今秋の新作映画『願い(原題)』の封切りを控えたイ・ジュンイク監督に数日前に会った。新作の話の代わりに彼は「事実と真実は違う」とか「本質は、言葉や考えではなく、選択と行動にある」という話を取り出した。案の定、最近の殺人事件の話も出てきた。これを映画のせいだというのは“卑怯な弁解”だというのが彼の話だ。


今回の事件とは違うケースだが、国内外で凶悪事件を犯した彼らが時々、特定映画に言及する時がある。彼らがこういう話をしたのは事実だといっても、事件の真実とは距離がある。これはまるで被害者が短いスカートをはいていたので性暴行を犯したというような犯罪者の主張を額面そのままに受け入れることができないことと同じだ。このような発言は、責任を回避しようとする犯罪者の弁解、さらに進んで社会的弁解になる恐れがある。今回の事件をはじめとして、いったいなぜこのような犯罪が広がったのか、これを防ごうとするならどうしなければならないのかについての社会的な悩みを、とんでもない方向に導く危険がある。

実際のところ、映画やゲームの暴力性や残酷性あるいは犯罪手法の詳細な描写は、長い間の論争の種だ。犯罪はもちろん青少年の情緒に及ぼす影響について色々な意見が存在している。万一、これら全てが映画のせいだというならば解決法は簡単だ。映画というジャンル自体を全面禁止にしても仕方ないというのが個人的な考えだ。いくら立派な映画でも、1人の人生や命よりも大きな価値にはなれない。

イ・ジュンイク監督はこんな話もした。日本の北野武監督がした話なのだが、全体として見ると世の中を美しく温かく描いた映画がはるかに多いが、その映画の影響はみなどこへ行ってしまったのかというのが要旨だ。そういうことだ。 その上、犯罪事件の被害者らと家族の苦痛を切々と描き出した映画も少なくない。映画という媒体は万能でも、絶対善でもない。特定映画が社会的批判を受ける時も、受けなければならない時も確かにある。しかしとんでもない解釈と批判は、弁解の種を量産するだけだ。

イ・フゥナム文化スポーツ部門次長



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