老兵チェ・ヤンソプ氏(85)にとって韓国戦争(1950-53)の記憶は最近のことのように鮮明だ。
月給の5-10%を出して大韓民国初の軍艦「白頭山」を確保した日、米海軍から譲り受けた「白頭山」の表面の錆を取ってペイントしたこと、1950年6月25日晩に釜山沖で黒い煙を見つけて追跡したことまで。
最近出版された『6・25海の戦友たち』には、砲術士として参戦した当時の“チェ・ヤンソプ少尉”の経験が描かれている。
「船体を黒く塗って国旗もつけていない船だった。近づいてみると、完全武装した軍人がたくさんいた。私たちの艦長は将校全員を士官室に集合させ、『戦闘に突入する。死を覚悟して戦おう。必ず勝ってまた会おう』とコップに水を注いだ。みんな一緒に乾杯しながら『戦おう、戦おう』と叫んだ」。
戦闘は激しかった。持っている砲弾は100発のみ。最初の任務は東海岸のオッケ海岸に上陸する敵軍を撃退することだった。しかし目の前の敵艦を放置することはできない。近距離速戦即決を決めた。敵艦に近づいて艦橋を命中させた。同時に敵の砲弾が操舵室を突き抜け、韓国軍2人が腹部に破片を受けて倒れた。
「2人を救急室に移した。戦闘を終えて行くと、『敵艦はどうなったのか』と尋ねた。『撃沈した、絶対に生きなければいけない』と叫んだ。その瞬間2人の兵士の目は輝いてうなだれた。『大韓民国万歳』という言葉もまだ終わらせずに」。 後に大韓海峡海戦と命名されたこの日の戦闘の勝利で、釜山は敵の手に渡らなかった。
マッカーサー司令部情報要員ノーマン・ジョンソン氏の著書 『韓国作戦』では「6月25日未明、北朝鮮軍特殊要員600人が海路で釜山を占領しようと投入された。幸い、釜山沖でこの偽装船が韓国海軍によって撃沈された。この事件が韓国戦争の分水嶺となった」と書かれている。
米海軍大学教授トーマス・カトラー氏は 『韓国戦争と米国海軍』で、「この戦闘は国連軍が韓国で生存する条件を作るのに最も重要な役割をした」と書いた。
あれから60余年。老兵にとって韓国戦争は進行形だ。チェ・ヤンソプ氏の書斎は忠武公李舜臣(イ・スンシン)と韓国戦争および北朝鮮関連の本で埋まっている。68年に忠武艦の艦長となったチェ氏は20年前から韓国海洋少年団連盟の顧問として全国の小中高校で安保の講義をしている。
28年に江原道平康で生まれたチェ氏は光復(開放)後、故郷で学生に歴史を教えた。「当時、北に駐屯したソ連軍と人民軍の蛮行に身震いした。南に下りて海士3期で入隊した。ようやく取り戻した自分の国、自分の手で守りたかった」。
09年、老兵は大韓海峡戦闘で死亡した2人の兵士のうち遺族を探せなかった一人、チョン・ビョンイク下士官の家族をなんとか探し出した。彼の最後の姿を伝え、当時のチョン・オクグン海軍参謀総長と一緒に行って遺族に勲章を伝えた。
「軍人が国のために命をかけるのは、争って死んでも、負傷しても、国と軍と国民が自分と家族を忘れずに面倒を見てくれるという信頼があるからだろう。02年の第2延坪海戦で戦死した6人の葬儀に大統領も国防長官も出席しなかった。どのように軍人に命をかけて最後まで守れと言えるのか」
チェ氏は最近の政界の西海(ソヘ、黄海)北方限界線(NLL) 論争について、「60年間にわたり私たちの海軍が命をかけて守ってきた海上分界線を譲ることはできない」と声を高めた。
チェ氏は本を出した理由をこのように説明した。「命を投じて国を守った戦友たちの痕跡を後代に残しておくのが、老いた私が消える前にするべき最後の責務と考えた。地球上から消えるところだった大韓民国が、誰によってどう守られたのかということを。老兵は死なないというではないか。消えるだけだ」。
月給の5-10%を出して大韓民国初の軍艦「白頭山」を確保した日、米海軍から譲り受けた「白頭山」の表面の錆を取ってペイントしたこと、1950年6月25日晩に釜山沖で黒い煙を見つけて追跡したことまで。
最近出版された『6・25海の戦友たち』には、砲術士として参戦した当時の“チェ・ヤンソプ少尉”の経験が描かれている。
「船体を黒く塗って国旗もつけていない船だった。近づいてみると、完全武装した軍人がたくさんいた。私たちの艦長は将校全員を士官室に集合させ、『戦闘に突入する。死を覚悟して戦おう。必ず勝ってまた会おう』とコップに水を注いだ。みんな一緒に乾杯しながら『戦おう、戦おう』と叫んだ」。
戦闘は激しかった。持っている砲弾は100発のみ。最初の任務は東海岸のオッケ海岸に上陸する敵軍を撃退することだった。しかし目の前の敵艦を放置することはできない。近距離速戦即決を決めた。敵艦に近づいて艦橋を命中させた。同時に敵の砲弾が操舵室を突き抜け、韓国軍2人が腹部に破片を受けて倒れた。
「2人を救急室に移した。戦闘を終えて行くと、『敵艦はどうなったのか』と尋ねた。『撃沈した、絶対に生きなければいけない』と叫んだ。その瞬間2人の兵士の目は輝いてうなだれた。『大韓民国万歳』という言葉もまだ終わらせずに」。 後に大韓海峡海戦と命名されたこの日の戦闘の勝利で、釜山は敵の手に渡らなかった。
マッカーサー司令部情報要員ノーマン・ジョンソン氏の著書 『韓国作戦』では「6月25日未明、北朝鮮軍特殊要員600人が海路で釜山を占領しようと投入された。幸い、釜山沖でこの偽装船が韓国海軍によって撃沈された。この事件が韓国戦争の分水嶺となった」と書かれている。
米海軍大学教授トーマス・カトラー氏は 『韓国戦争と米国海軍』で、「この戦闘は国連軍が韓国で生存する条件を作るのに最も重要な役割をした」と書いた。
あれから60余年。老兵にとって韓国戦争は進行形だ。チェ・ヤンソプ氏の書斎は忠武公李舜臣(イ・スンシン)と韓国戦争および北朝鮮関連の本で埋まっている。68年に忠武艦の艦長となったチェ氏は20年前から韓国海洋少年団連盟の顧問として全国の小中高校で安保の講義をしている。
28年に江原道平康で生まれたチェ氏は光復(開放)後、故郷で学生に歴史を教えた。「当時、北に駐屯したソ連軍と人民軍の蛮行に身震いした。南に下りて海士3期で入隊した。ようやく取り戻した自分の国、自分の手で守りたかった」。
09年、老兵は大韓海峡戦闘で死亡した2人の兵士のうち遺族を探せなかった一人、チョン・ビョンイク下士官の家族をなんとか探し出した。彼の最後の姿を伝え、当時のチョン・オクグン海軍参謀総長と一緒に行って遺族に勲章を伝えた。
「軍人が国のために命をかけるのは、争って死んでも、負傷しても、国と軍と国民が自分と家族を忘れずに面倒を見てくれるという信頼があるからだろう。02年の第2延坪海戦で戦死した6人の葬儀に大統領も国防長官も出席しなかった。どのように軍人に命をかけて最後まで守れと言えるのか」
チェ氏は最近の政界の西海(ソヘ、黄海)北方限界線(NLL) 論争について、「60年間にわたり私たちの海軍が命をかけて守ってきた海上分界線を譲ることはできない」と声を高めた。
チェ氏は本を出した理由をこのように説明した。「命を投じて国を守った戦友たちの痕跡を後代に残しておくのが、老いた私が消える前にするべき最後の責務と考えた。地球上から消えるところだった大韓民国が、誰によってどう守られたのかということを。老兵は死なないというではないか。消えるだけだ」。
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