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【コラム】対馬で対抗しよう!

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
#先週末、数人の歴史学者と一緒に対馬に行った。 釜山から対馬までは50キロ。福岡からは138キロだ。 対馬は近いうえ、韓国との縁も深くて長い。 『古事記』と『日本書紀』によると、百済の王仁博士が375年、『千字文』1冊と『論語』10冊を持って海を渡り、最初に到着したのが対馬の鰐浦だった。 ここに「百済国王仁博士顕彰碑」がある。 そのほかにも対馬には韓国に関連した遺跡が多い。

#そのためか、対馬はもともと韓国の領土であり、返還されるべきだという主張も多い。 現役陸軍大佐のキム・サンフン氏もその一人だ。 根拠はこうだ。 「白頭山は頭、大関嶺は脊椎、嶺南は対馬、湖南は耽羅を両足とする(以白山為頭 大嶺為脊 嶺南之対馬 湖南之耽羅 為両趾)」。1750年代に制作された「海東地図」に書かれている。 19世紀に作成された慶尚道地図でも対馬は朝鮮の領土だ。 さらに1945年に発行された「解放記念版最新朝鮮全図」でも、対馬は厳格に私たちの領土だ。 韓国の地図だけでない。 征韓論の始祖格である林子平が1785年に作った『三国通覧図説』の地図でも対馬は朝鮮のものだ。 地図だけではない。 初代大統領の李承晩(イ・スンマン)は1948年8月15日、大韓民国政府樹立の3日後に行った最初の会見で「対馬返還」を要求した。 翌年の年頭会見でもこう述べた。 「対馬返還は私たちの失地を回復するものだ。 日人が何と言っても、歴史はどうにもならない」。しかし韓国戦争(1950-53)が始まり、「対馬返還」は戦争の砲声に埋もれてしまった。 しかし対馬失地回復運動は今も続いている。

#日本の島根県は06年から毎年2月22日を「竹島(独島の日本名)の日」に定め、記念行事を開いてきた。 今年も例外なく行事は開かれた。 自民党内閣は島尻安伊子内閣府政務官(次官級)を政府代表として行事に派遣した。 細田博之自民党幹事長代行、小泉純一郎元首相の息子の小泉進次郎自民党青年局長ら現役議員18人も出席した。 歴代最大規模だ。 ちょうど韓国が新・旧政権の交代で落ち着かない時期に強行したのだ。


#05年2月22日、島根県が「竹島の日」条例を制定すると、馬山市議会はこれに対抗し、3月18日に「対馬島の日」条例を制定した。 この日制定された条例は「対馬が韓国の領土であることを対内外に刻印させ、領有権確保を目的とし、朝鮮初期の李従茂(イ・ジョンム)将軍が対馬征伐のために馬山浦を出発した6月19日を対馬島の日に定める」などを主要内容としている。 これに対し、当時の韓国外交部は報道官の論評で、「不必要な論争を誘発する可能性が高い」と自制を求めた。 そのためか、馬山市が昌原市に統廃合されると、昌原市議会は昨年12月11日、従来の「対馬島の日条例」を「昌原市対馬島の日条例」に修正した。 「竹島の日」が形式上、島根県の行事であるように、対馬島の日も形式上、昌原市の行事だとして程度を調節したわけだ。 しかし日本政府が「竹島の日」行事を、形式上は県単位で開きながらも、内容的には政府関与行事で続ければ、韓国も「対馬島の日」行事を政府レベルで関与して対抗してこそ程度が合う。

#再執権した日本自民党は領土問題に関して強硬基調だ。 しかしロシアとは森元首相がロシアを訪問するなど、ある種の妥協を図っている。 これに比べて独島問題では超強硬だ。 日本が1855年の日露和親条約後に占有し、第2次世界大戦終戦後にまた奪われた北方四島の返還を要求する立場なら、対馬はすでに私たちに渡していなければならないはずだ。 北核に劣らない問題である独島と対馬。新たにスタートした朴槿恵(パク・クネ)政権がどう取り組むか見守らなければならない。

チョン・ジンホン論説委員



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