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<韓国初女性大統領・朴槿恵が歩んできた道>(上)34年ぶりに青瓦台に戻る大統領の娘(2)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版

1998年、国会議員に当選したあと、歓呼する朴槿恵(パク・クネ)氏。

2002年5月、金正日(キム・ジョンイル)国防委員長(右)と朴槿恵(パク・クネ)氏。

2004年3月、テント党舎に向かう朴槿恵(パク・クネ)氏。

<3>大邱達城で政界入門

朴槿恵を呼び戻したのは1997年の通貨危機だった。 朴槿恵は「通貨危機後の一連の事態を見ながら、『国がこのように揺れているのに自分だけ気楽に生きれば、死後に堂々と親に会えるだろうか』という質問がずっと頭の中から離れなかった」と話した。 97年12月10日、第15代大統領選挙を8日後に控え、朴槿恵はハンナラ党の李会昌(イ・フェチャン)候補支持を宣言し、政界に足を踏み入れた。

ハンナラ党が大統領選挙で敗れると、1998年4・2再・補欠選挙は党の命運がかかる重要な選挙となった。 朴槿恵は父が若い頃に教鞭を執った聞慶-醴泉出馬を決心した。 しかし党が状況が厳しい大邱達城での出馬を要請し、朴槿恵はこれを受諾した。


国民会議が達城に送った厳三鐸(オム・サムタク)候補は手ごわい相手だった。 政権初期だったため、資金と組織を前面に出した与党候補のプレミアムも大きかった。 当時、達城選対委員長だった姜在渉(カン・ジェソプ)が「選挙資金はどれほどあるか」と尋ねると、朴槿恵はただ「ありません」と答え、姜在渉を当惑させた。

その代わり朴槿恵は一日に10万歩以上も歩きながら、有権者との対面接触を増やすことに全力投球した。 終盤まで世論調査では劣勢だったが、朴槿恵は世論調査に表れない“民心”の力を信じた。 結局、蓋を開けてみると朴槿恵の完勝だった。 政治工学を遠ざけて民心に直接訴える朴槿恵の政治スタイルはこの時から始まった。

<4>2002年に金正日と会談

朴槿恵は2002年5月11日から3泊4日間、平壌(ピョンヤン)を訪問した。 ヨーロッパ-コリア財団理事の資格で北朝鮮民族和解協議会の招請を受けたのだ。 当時、朴槿恵は李会昌との葛藤の末、ハンナラ党を脱党し、韓国未来連合創党を準備していた。 金正日は自分の専用機を中国・北京に送って朴槿恵を迎えるほど礼遇を見せた。 5月13日晩、金正日が予告なく朴槿恵が宿泊していた百花園迎賓館を訪問した。 朴正煕の長女と金日成(キム・イルソン)の長男の間で行われた歴史的な会談だった。

2人は速記士1人だけを同席させた状態で1時間ほど会談した。 朴槿恵は「金正日国防委員長は率直でストレートな人だった。 話し方と態度が印象的だった」と語った。 金正日は68年の北朝鮮軍特殊部隊の1・21青瓦台襲撃事件について、「当時、極端主義者が誤って事件を起こした。 申し訳なく思う。 その事件にかかわった人はみんな応分の罰を受けた」と謝罪した。 朴槿恵が「答礼訪問をするという約束を守ってはどうか」と話すと、金正日は適切な機会に行くと答え、朴正煕元大統領の墓地を参拝するという言葉も述べたという。

<5>テント党舎から“選挙女王”に

2004年3月24日、ハンナラ党代表として初めて出勤した朴槿恵は、汝矣島(ヨイド)国会前の10階建ての党舎に入らなかった。 その代わりに党員と一緒に党舎入口の扁額を外した後、1キロほど離れた汝矣島中小企業展示場の敷地のテント党舎に入った。 当時ハンナラ党は盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領に対する弾劾の逆風で沈没直前だった。 総選挙で50席確保も難しいという世論調査も出ていた。

救援で登場した朴槿恵は党の痛烈な反省を象徴するイベントとして、少壮派の建議を受け入れてテント党舎に党を移した。 党役員は黄砂を防ぐためにマスクをしたまま勤務し、あちこちでもれる雨水をバケツを受けた。 反省の時間は84日間続いた。 選挙運動期間、朴槿恵は「腐敗・既得権政党から脱する。 最後にもう一度機会を与えてほしい」と訴えながら全国を回った。 あまりにも多くの握手をしたために手が腫れ、選挙日の5日前からは右手に包帯を巻いていた。

総選挙でハンナラ党は121席と予想以上に善戦し、起死回生した。 朴槿恵が保守陣営の新しいアイコンとして定着する瞬間だった。 朴槿恵は同年6月、塩洞に党舎を移しても「テント党舎精神」を強調し、各種改革を陣頭指揮した。



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