尹鶴子のピアノ演奏の姿を拡大したパネルの前で孫娘のチョン・エラ院長(右)が子どもたちに話している。
「韓国孤児の母」と呼ばれた尹鶴子は本名を田内千鶴子という日本女性だった。7歳だった1919年に木浦市庁の官吏として赴任した父親と一緒に木浦に来た。木浦女子高を卒業した後教師として勤めている間に共生園で音楽と日本語を教える人を求めているという話を聞いて志願した。共生園はキリスト教伝導師であった尹致浩(1909~?)が1928年から街で物乞いする子どもたちを連れ帰り面倒を見ていた所だ。
田内は尹園長と恋に落ち1938年に結婚し名前も尹鶴子に変えた。夫婦は4人の実子に園生と同じものを食べさせ同じ服を着せて育てた。45年の解放後、日本人という理由で一部住民が嫌がらせにくると、園生らが「私たちを育てたお母さんに手を出すなら私たちから殺せ」とかばった。韓国戦争期間中に夫の尹園長は全羅南道(チョンラナムド)道庁に食糧救護を要請しに行き行方不明になってしまった。
韓国の孤児3000人を育てた日本人女性(2)
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