独島を密かに自国の領土に編入した日本。その後、また韓半島全体をのみ込んだ帝国主義の野心は、どんな経路をたどったのか。この過程に核心的な役割をした日本人がいる。日本の独島歪曲の根元であり帝国主義の尖兵だ。独島を挟んで韓国と日本の激しい神経戦が繰り広げられている最近、私たちはこの人物に注目する必要がある。主張よりも静かな事実確認を通じて、日本の歪曲と強引な主張を抑えるという趣旨でだ。非常に珍しいが、この人物を綿密に追跡した著作がある。『独島実録1905』(イェ・ヨンジュン著)だ。これに加え、この分野の最高権威者である国際韓国研究院の崔書勉(チェ・ソミョン)院長の助言を通じて、独島歪曲に続いて韓半島強制占領まで狙ったこの日本人の行跡を紹介する。
◇韓半島侵奪を率先した「黒龍会」と関係
19世紀末は朝鮮の黄昏だった。 韓半島の海域には見慣れない鉄船が現れ始め、帝国の気運を伸ばそうとする見慣れない外地人の出入りも増えた。 こうした気運はいつの間にか黄昏を迎えた朝鮮の運命を締めつけていた。 1882年、大胆な外貌をした日本人が釜山(プサン)に入港した。 日本外務省の初任外交官で、釜山の日本領事館に赴任した山座円次郎(1866-1914)だった。
山座が手掛けた最初の作業はソウルと釜山をつなぐ線路、京釜線の測量作業だった。 山座は早くから帝国主義の気運を韓半島に伸ばすためのインフラに注目したのだ。 しかし難しい事情があった。 朝鮮政府の許諾を受けなければならないからだ。 26歳の青年外交官の山座はひらめいた。 「朝鮮の鳥を捕まえるという名分で朝鮮政府に許諾を受けよう」という内容だった。
一種の詐術だった。 山座の計画通りに事は進んだ。 朝鮮政府に「鳥狩りをするので赤い旗を立てれば人が接近しないようにしてほしい」と伝えた後、釜山-ソウルの線路敷設地を測量した。 山座が行った測量作業を基礎に日帝が1904年、韓半島強占のために京釜線を敷設したのは言うまでもない。
山座の出生地は日本の福岡だった。 熊本とともにこの地域は韓半島侵奪と深い関係がある。 崔書勉(チェ・ソミョン)院長は「明治維新で主流に入れなかった福岡・熊本出身の政客は日本の力を外側に伸ばす拡張政策を主導し、結局、韓半島侵奪の先鋒に立った」と指摘した。 その地域の出身者で構成された代表的な団体が玄洋社だ。 後に韓半島侵奪に率先した組織の黒龍会、日本の浪人からなる天佑侠などがすべて玄洋社と深い関係がある。 山座はこの玄洋社の総帥だった頭山満と親しい関係だった。
山座は1901年から1908年まで日本外務省政務局長を務めた。 長官と次官の下の局長は通商と政務だけがあった時代だ。 通商を除いたすべての業務を引き受けるのが政務局長で、日本の対外政策をすべて扱う要職中の要職だった。 山座が政務局長を務めながら手掛けたことは非常に多い。 最も目を引くのは独島を強制的に日本に編入する作業だった。 これとともに英国と同盟を締結した後、ロシアとの戦争(日露戦争)を勝利に導き、韓半島強占の決定的な契機をつくった。
独島強制編入の事情はこうだ。 島根県出身の中井養三郎という漁夫がいた。 独島にまで来てそこに生息していたアシカを捕獲していた人物だった。 中井は独島のアシカ漁を独占するため、この島を朝鮮政府から賃借りする考えだった。 しかし「もしかすると(独島は)朝鮮の地ではないかもしれない」という日本水産局、海軍水路部の役人の話を聞き、いっそのこと独島を日本の領土に編入しようという請願を出した。
中井は内務省を訪ねたが、「朝鮮の領土という疑いがある不毛の島に手を出す必要はない」という否定的な返答を受けた。 失望した中井が最後に訪ねたのが、山座が政務局長を務める外務省だった。 1910年ごろ中井が政府報告用に作成した「竹島経営概要」という陳述書は、当時の山座が見せた反応をこう書いている。
「平然と聞いていた局長がゆっくり口を開くと、外交上のことは他の人が関与することではない…時局で見ても領土編入は大きな利益があることを認めるという考えを明らかにした」。
「(政務局長は)時局が領土の編入を必要とし、望楼を設置して無線または海底電線を敷設すれば、敵艦の監視に非常に重要になるのでは…急いで請願書を外務省に提出しろと意気揚々に話した」。
山座が言う「時局」とは、自身が準備していたロシアとの戦争だった。 当時、日本は鬱陵島にすでに通信線を設置した状態だった。 崔書勉院長は「当時、海軍の戦闘はどちらが先に相手を発見し、艦砲で先制射撃を加えるかがカギだった。 日本はロシアとの戦争を準備しながら鬱陵島に続いて独島にも通信線を架設し、ロシアのバルチック艦隊の移動を先に把握することに力を注いでいた」と説明した。
次の過程はよく知られている。 日本は1905年、独島を島根県に編入し、「リャンコ」(リアンクールの日本式発音)と呼んだ独島に竹島という名前を付けた。 曲折はあったが、最終的に竹島が日本の領土に変身する過程は、中井養三郎という漁夫の個人的な欲、ロシアとの戦争を準備していた山座円次郎の陰謀で結局、実現したということだ。
「朝鮮の領土」という日本内務省の意見を無視、独島編入を主導した山座円次郎(2)
◇韓半島侵奪を率先した「黒龍会」と関係
19世紀末は朝鮮の黄昏だった。 韓半島の海域には見慣れない鉄船が現れ始め、帝国の気運を伸ばそうとする見慣れない外地人の出入りも増えた。 こうした気運はいつの間にか黄昏を迎えた朝鮮の運命を締めつけていた。 1882年、大胆な外貌をした日本人が釜山(プサン)に入港した。 日本外務省の初任外交官で、釜山の日本領事館に赴任した山座円次郎(1866-1914)だった。
山座が手掛けた最初の作業はソウルと釜山をつなぐ線路、京釜線の測量作業だった。 山座は早くから帝国主義の気運を韓半島に伸ばすためのインフラに注目したのだ。 しかし難しい事情があった。 朝鮮政府の許諾を受けなければならないからだ。 26歳の青年外交官の山座はひらめいた。 「朝鮮の鳥を捕まえるという名分で朝鮮政府に許諾を受けよう」という内容だった。
一種の詐術だった。 山座の計画通りに事は進んだ。 朝鮮政府に「鳥狩りをするので赤い旗を立てれば人が接近しないようにしてほしい」と伝えた後、釜山-ソウルの線路敷設地を測量した。 山座が行った測量作業を基礎に日帝が1904年、韓半島強占のために京釜線を敷設したのは言うまでもない。
山座の出生地は日本の福岡だった。 熊本とともにこの地域は韓半島侵奪と深い関係がある。 崔書勉(チェ・ソミョン)院長は「明治維新で主流に入れなかった福岡・熊本出身の政客は日本の力を外側に伸ばす拡張政策を主導し、結局、韓半島侵奪の先鋒に立った」と指摘した。 その地域の出身者で構成された代表的な団体が玄洋社だ。 後に韓半島侵奪に率先した組織の黒龍会、日本の浪人からなる天佑侠などがすべて玄洋社と深い関係がある。 山座はこの玄洋社の総帥だった頭山満と親しい関係だった。
山座は1901年から1908年まで日本外務省政務局長を務めた。 長官と次官の下の局長は通商と政務だけがあった時代だ。 通商を除いたすべての業務を引き受けるのが政務局長で、日本の対外政策をすべて扱う要職中の要職だった。 山座が政務局長を務めながら手掛けたことは非常に多い。 最も目を引くのは独島を強制的に日本に編入する作業だった。 これとともに英国と同盟を締結した後、ロシアとの戦争(日露戦争)を勝利に導き、韓半島強占の決定的な契機をつくった。
独島強制編入の事情はこうだ。 島根県出身の中井養三郎という漁夫がいた。 独島にまで来てそこに生息していたアシカを捕獲していた人物だった。 中井は独島のアシカ漁を独占するため、この島を朝鮮政府から賃借りする考えだった。 しかし「もしかすると(独島は)朝鮮の地ではないかもしれない」という日本水産局、海軍水路部の役人の話を聞き、いっそのこと独島を日本の領土に編入しようという請願を出した。
中井は内務省を訪ねたが、「朝鮮の領土という疑いがある不毛の島に手を出す必要はない」という否定的な返答を受けた。 失望した中井が最後に訪ねたのが、山座が政務局長を務める外務省だった。 1910年ごろ中井が政府報告用に作成した「竹島経営概要」という陳述書は、当時の山座が見せた反応をこう書いている。
「平然と聞いていた局長がゆっくり口を開くと、外交上のことは他の人が関与することではない…時局で見ても領土編入は大きな利益があることを認めるという考えを明らかにした」。
「(政務局長は)時局が領土の編入を必要とし、望楼を設置して無線または海底電線を敷設すれば、敵艦の監視に非常に重要になるのでは…急いで請願書を外務省に提出しろと意気揚々に話した」。
山座が言う「時局」とは、自身が準備していたロシアとの戦争だった。 当時、日本は鬱陵島にすでに通信線を設置した状態だった。 崔書勉院長は「当時、海軍の戦闘はどちらが先に相手を発見し、艦砲で先制射撃を加えるかがカギだった。 日本はロシアとの戦争を準備しながら鬱陵島に続いて独島にも通信線を架設し、ロシアのバルチック艦隊の移動を先に把握することに力を注いでいた」と説明した。
次の過程はよく知られている。 日本は1905年、独島を島根県に編入し、「リャンコ」(リアンクールの日本式発音)と呼んだ独島に竹島という名前を付けた。 曲折はあったが、最終的に竹島が日本の領土に変身する過程は、中井養三郎という漁夫の個人的な欲、ロシアとの戦争を準備していた山座円次郎の陰謀で結局、実現したということだ。
「朝鮮の領土」という日本内務省の意見を無視、独島編入を主導した山座円次郎(2)
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