イ・ジョンシク米ペンシルベニア大名誉教授兼慶煕大教授(81)が米アマゾンドットコム(amazon.com)から『朴正煕(パク・ジョンヒ)評伝』(英語名Park Chunghee)を出した。 朴正煕元大統領(1917-79)が生まれた20世紀初めから1961年の5・16軍事クーデター発生までの現代史を「人間朴正煕」を中心に再照明した。
イ教授は著書『韓国共産主義運動史』で、すでに70年代に世界の学界に名前が知られた。 周囲の勧めで4年前からこの本を準備したという。 韓国・中国・日本に残っている朴元大統領関連場所も踏査した。 1週間後には電子ブックも出る予定だ。
--総選挙・大統領選挙を控えた微妙な時期に本が出てきた。
「私はそういうことを全く考えていなかった。 数年間にわたる作業になり、ようやく編集が終わった。 私は朴元大統領の世話になったこともない。 1950年代から米国に居住し、むしろ維新に反対した。 朴大統領批判で有名な雑誌『思想界』の米国通信員も務めた。 維新が始まった72年から9年間は韓国を訪問したこともなかった」
--どんな点に力を入れたのか。
「彼の父の朴成彬(パク・ソンビン)の時代から5・16クーデターまでの韓国と周辺国の歴史を振り返りながら、どんな状況またはイベントが人間・朴正煕にどんな影響を与えたのかという点に注目した」
--著書の副題の「From Poverty to Power(貧困から権力に)」はどういう意味か。
「貧困が権力を追求させたということだが、朴正煕は貧困が自分の師だったと語った。 山頂にあった彼の生家に行ってみると、その言葉を直感できる。 父親の朴成彬は両班の家の長男で、科挙を準備している途中、東学に加入して死刑にあうところだった。 その件で家門から追い出され、妻の家の墓守に転落した。 貧しくなるしかなかった。 朴正煕は頭がよく、大邱(テグ)師範学校に入学するが、食事代を出せず、毎年40日ほど欠席した。 小学校でトップだった学生が、大邱師範学校では70人のうち69位で卒業することになった背景だ。 こうした貧困の記憶が彼の将来を左右した」
--大邱師範学校を卒業した後、普通学校(小学校)の教師になり、比較的安定した生活を送ることができたが、なぜ満州軍軍官学校と日本陸軍士官学校に通ったのか。
「幼い頃の夢が将校になることだった。 学生時代に読んだナポレオンと李舜臣(イ・スンシン)の伝記も影響を及ぼした。 また大邱師範学校の同窓生は次々と日本へ留学したが、自分は貧しかったためそうできなかった。 軍官学校に行けば将校になり、高等教育も受けられて、一石二鳥と考えたのかもしれない」
「朴正煕、血書まで書いて日本学校に入学したのは一種の流行」(2)
イ教授は著書『韓国共産主義運動史』で、すでに70年代に世界の学界に名前が知られた。 周囲の勧めで4年前からこの本を準備したという。 韓国・中国・日本に残っている朴元大統領関連場所も踏査した。 1週間後には電子ブックも出る予定だ。
--総選挙・大統領選挙を控えた微妙な時期に本が出てきた。
「私はそういうことを全く考えていなかった。 数年間にわたる作業になり、ようやく編集が終わった。 私は朴元大統領の世話になったこともない。 1950年代から米国に居住し、むしろ維新に反対した。 朴大統領批判で有名な雑誌『思想界』の米国通信員も務めた。 維新が始まった72年から9年間は韓国を訪問したこともなかった」
--どんな点に力を入れたのか。
「彼の父の朴成彬(パク・ソンビン)の時代から5・16クーデターまでの韓国と周辺国の歴史を振り返りながら、どんな状況またはイベントが人間・朴正煕にどんな影響を与えたのかという点に注目した」
--著書の副題の「From Poverty to Power(貧困から権力に)」はどういう意味か。
「貧困が権力を追求させたということだが、朴正煕は貧困が自分の師だったと語った。 山頂にあった彼の生家に行ってみると、その言葉を直感できる。 父親の朴成彬は両班の家の長男で、科挙を準備している途中、東学に加入して死刑にあうところだった。 その件で家門から追い出され、妻の家の墓守に転落した。 貧しくなるしかなかった。 朴正煕は頭がよく、大邱(テグ)師範学校に入学するが、食事代を出せず、毎年40日ほど欠席した。 小学校でトップだった学生が、大邱師範学校では70人のうち69位で卒業することになった背景だ。 こうした貧困の記憶が彼の将来を左右した」
--大邱師範学校を卒業した後、普通学校(小学校)の教師になり、比較的安定した生活を送ることができたが、なぜ満州軍軍官学校と日本陸軍士官学校に通ったのか。
「幼い頃の夢が将校になることだった。 学生時代に読んだナポレオンと李舜臣(イ・スンシン)の伝記も影響を及ぼした。 また大邱師範学校の同窓生は次々と日本へ留学したが、自分は貧しかったためそうできなかった。 軍官学校に行けば将校になり、高等教育も受けられて、一石二鳥と考えたのかもしれない」
「朴正煕、血書まで書いて日本学校に入学したのは一種の流行」(2)
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