キム・ミル氏の作品。
キム・ミル氏(31)。
キム・ミル氏の作品。
キム・ミル氏の作品。
キム・ミル氏の作品。
キム・ミル氏の作品。
キム氏が3月29日から4月30日まで、ソウル昭格洞(ソギョクドン)トランクギャラリー(02-3210-1233)で、個展「豚、ゆえに私は存在する」を開く。当時、パフォーマンス映像を公開し、米国の養豚農場に通いながら撮った写真も展示する。キム氏の韓国での個展はこれで2回目となる。
彼女は3年前、大都市の廃墟に注目した「裸都の憂愁」シリーズを披露した。ニューヨークの下水口、打ち捨てられた砂糖工場などを巡り、その中で無防備状態の自分自身を撮影した。26日にそのキム氏に会った。
--どうして豚なのか。
「医大進学を準備中に、解剖学の時間に豚の胎児を解剖した。豚を通じて人体を学ぶところに驚いた。解剖学的に人間と最も近い動物が豚だった。肌の色も似ているではないか」
--どうして脱いだのか。
「動物も脱いでいるではないか。直に肌を触れ合わせてみると、彼らも全身でその感覚を共感する。今回は肌にもっとフォーカスを当ててみた。私がどのようにして外部の世界と出会うのかという問題だ」
--展示のテーマはどのような意味か。
「『豚、ゆえに私は存在する(The Pig That Therefore I Am)』というタイトルは、フランスの哲学者であるジャック・デリダ(Jacques Derrida)の本から引用した。『動物、ゆえに私は存在する(The Animal That Therefore I Am)』が原題だった。デカルトはかつて『私は思う、ゆえに存在する』と言った。あまりに両極端ではないだろうか。デリダという人間の理性とその物理的存在は別のものではないと思った」
--東洋的な考え方だ。
「ある面からはそう思える。私も共感する。豚のように、生きているからわれわれは存在する。『私は豚が好きで、豚は私が好きだ』というドイツのヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys、1921~86)が、ギャラリーでコヨーテと一緒に多くの日を過ごしたパフォーマンスから取った。彼のコヨーテが米国の象徴なら、私の豚は豚そのものだ」
--豚と生活してみてどうだったか。
「私は片付け続け、豚に水や餌をあげたりした。どうやっても、私は人間以外の何者でもなかったと言える」
--父親(トオル、金容沃・円光大碩座教授)の七光りがあるとの批判も聞こえるが。
「あまり気にしていない。私は自分をそのようには見ないから。誰の娘だとか、海外ではあまり分からない。私の名前は父がつけてくれた。彌勒(ミロク)の“彌(ミ)”、“みすぼらしい”という意味の“陋(ル)”で、『ますます謙遜になれ』という意味だ。この名前のせいか、さらに薄汚い所を訪れるようになったのかもしれない」
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