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ソク・ヘギュン船長(58)が笑った。28日、京幾道水原(キョンギド・スウォン)の亜洲(アジュ)大病院集中治療室。‘パーフェクト船長’が意識を回復し、国民に感謝の言葉を伝えた。
「不細工でもうまく撮ってください」。集中治療室で取材陣に会ったソク船長は冗談を言うほど元気になっていた。「アデン湾の黎明」作戦中、海賊が撃った銃弾を受け、国内に移送されて1カ月ぶりだ。
ソク船長は弾丸が貫通した左腕にギブスをし、両足が包帯で固定されているため、動くことはできなかった。それでも表情は明るかった。先月27日朝には看護師に頼んで髪の毛を黒く染めた。
ソク船長が語る「アデン湾黎明」作戦の瞬間は緊迫していた。「マットレスをかぶって床に伏せていたが、底をかすめながら(弾丸が)跳ね上がった。最初の銃弾で負傷した時は意識を失わなかった。その後、銃撃が交わされている間、ここで目を閉じれば死ぬ、作戦が終わるまで絶対に意識を失ってはいけないと誓っていた。清海(チョンヘ)部隊員を確認した後、血が流れる左腕を見てヘリコプターを呼んでほしいと頼んだ。オマーンの病院では非常に良くない、危険だという話を聞いて、意識を失った」。
1月21日の状況だ。ソク船長は38日ぶりにその日のことを思い起こした。ソク船長は記者の質問にしっかりと答えた。
--命をかけてかく乱作戦を続けたが。
「敵の手中に船が入るまで海賊は船長を思いのままにできない。銃を首にあてられても粘った。ふとんをかぶりながら紙に‘船を故障させろ’と書いて船員に渡した。私は指揮官なので命をかけることができた。海賊には英語で『殺すのなら殺せ』と話した」
--船員が見舞いを来たが。
「記憶がない。7人が見舞いに来てくれたと聞いた。みんな無事なので指揮者としては気分がいい」
--どこが最も不自由か。
「見て分かるように喉も手も足もみんな自由でない」(しかし負傷していない右腕は比較的自由に動いた)
--旧正月にしばらく意識が戻り、妻が話しかけた時、涙が見えたと聞いた。
「覚えていない」
--最も食べたいものは。
「私が釜山(プサン)の人間なので、刺し身も思い出すし、タコも食べたい」
--何か言いたいことがあれば。
「清海部隊員と国民が支援してくれた。感謝している。船員がみんな無事だという話を聞いて、私の作戦がうまっくいったと思った」
ユ・ヒソク院長は「銃傷6カ所のうち腹部3カ所はきれいに治るところで、骨折部位も少しずつ回復している」とし、「週末に一般病室に移し、整形外科の治療を受けることになるだろう」と話した。
病院側によると、ソク船長は発声チューブに取り替えた後、先月25日夜に初めて口を開いたという。ユ院長が「名前は何ですか」と尋ねると、ソク船長は「ソク・ヘギュン」と答えた。
面会に来た息子に対しては「海賊に奪われた三星(サムスン)カードと携帯電話の使用を止めてほしい。会社に連絡して、残りの荷物の確認をしてほしい」と話すなど、事故前の状況を詳しく記憶していた。
ソク船長が一般病室に移れば、検察の調査にも応じることができると、病院側はみている。
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