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「まるで自転車を作る鉄工所で超音速航空機を作れという注文を受けるようなものだった。 誰も三星(サムスン)が64K DRAMを開発できるとは信じていなかった」。
三星電子40年史に紹介された64K DRAM開発チーム員の言葉だ。 64K DRAMは、爪の大きさほどのチップに6万4000個のトランジスターなど15万個の素子を800万本の線でつないでこそ完成する。 当時ではVLSI(超高密度集積回路)級の先端半導体だった。 1980年代初め、時計やテレビに入る単純機能チップを生産した三星の開発能力を考えると、誰が見ても無謀だった。
◇血と汗の開発過程=故李秉喆(イ・ビョンチョル)三星会長が1983年3月15日、三星がVLSI事業に投資するという「東京宣言」を発表してからの過程は予想通り厳しかった。 グループの全幅の支援の中、同年5月、64K DRAM技術開発チームが構成された。 三星はマイクロンと設計技術の移転に合意し、6人の研究員を米マイクロンに送った。 しかし技術の移転は難関にぶつかった。 技術研修団はマイクロンで冷遇を受け、核心技術と関連した領域では排除された。 幸い、マイクロンが資金難に陥ったのがきっかけで、64K DRAMの設計図を手に入れることができた。 309種類にのぼる工程技術の開発も試行錯誤の繰り返りだった。
当時、李秉喆会長の秘書チーム長を務めた鄭埈明(チョン・ジュンミョン)氏(66)の話だ。 「三星は当時、NEC・三洋と提携してテレビを生産していたが、NECは半導体技術を与えなかった。 李秉喆会長がNECの会長を訪問しても、会ってもらえなかったり、関係のない話ばかりした。 一緒にゴルフをしても、半導体の話は取り出すこともできない雰囲気だった」
しかし三星には李秉喆会長が強調してきた「無限探究」精神があった。 李秉喆会長は職員に絶えず探求する熱情を伝えた。 職員らは自ら「半導体人の信条」を作って毎朝復唱した。 不毛地で半導体事業を必ず成功させるために作った10戒には▽度が過ぎるほど最善を尽くす▽すべてを数字で把握する--など、今でも意味深長なものが多い。 現在のようなコンピューター設計ではなく、膝を床について半導体図面を描くために、皮膚が擦りむけることもよくあった。 三星は製品開発に着手してから6カ月後の83年11月、ついに64K DRAMの開発に成功した。 6年かけて開発した日本と比較すると、ギネス並みの大事件だった。 米国と日本が20年かかった開発過程(4K・16K・32K)を3段階も跳び越える大飛躍だった。
当時、三星半導体通信(現三星電子半導体事業部)の姜晋求(カン・ジング)社長は「開発に着手して6カ月で64K DRAMの生産・組立・検査まで完全に自社開発し、10年以上遅れていた日米との技術格差を2-3年に縮めることになった」と述べた。
器興(キフン)に64K DRAMの生産工場を建設するのも逆境の連続だった。 着工から6カ月で完成させろという李秉喆会長の指示を受け、氷点下15度の寒さの中でも24時間工事を強行した。 ブルドーザー316台、ダンプトラック674台、延べ26万人が休む間もなく動いた。 建設慣例上18カ月以上かかっていた工事は、着工6カ月後の84年3月末に完工した。 施工を支援した日本技術陣は舌を巻いた。
日本が6年かかった64K DRAM、韓国は6カ月で開発(2)
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