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強制併合4カ月後の1910年12月、李会栄(イ・フェヨン)6兄弟と親族60余人が荷物を持ってソウルを離れ、満州へ向かった。 9人の領議政と1人の左議政を輩出した「三韓甲族」の一家として、国の恩恵を返すためにすべてのものを捧げるという覚悟だった。 一家は離れる前に全財産を処分した。 家屋や田畑はもちろん、家内で代々伝えられてきた骨董や書画も持ち出して売ったり、処分した。 いつまた帰ってくるか分からない遠い旅に出る前、行路で面倒になる重い荷物、割れ物は持って行くことができなかった。
この頃、ソウルを離れたのは、独立運動をしようと海外に亡命する人たちだけでなかった。 ソウル両班(ヤンバン)の生計手段は本来‘官職’だが、国が亡びただけに残る理由はなかった。 高等官はもちろん中間官吏さえもすべて日本人になったため、ソウルに残っても将来は見えなかった。 手遅れになる前に、いくらにもならない家産でも処分し、縁故がある田舎に農地を準備するのが賢明だった。 1910年以降の数年間、ソウルの日本人人口は急増したが、朝鮮人の人口はそれ以上に減った。 ソウル北村(ブクチョン)両班街では一日に数軒が引っ越しし、その度に後に文化財として評価されそうな物が捨てられたり安値に商売人の手に渡ったりした。
北村から鍾路(チョンロ)大路につながる旧忠勲府(チュンフンブ)の横の道、今の仁寺洞(インサドン)には、こうした物を扱う店が一つ、二つと誕生した。 朝鮮に派遣された日本人官吏、会社員、教授は記念品と見なしてこうした物を買い集め、同時に朝鮮文化財に対する知識も深めていった。
1931年の春、李完用(イ・ワンヨン)の甥・韓相竜(ハン・サンリョン)は、朝鮮財界に影響力がある日本高位層に会うために東京へ向かった。 その旅行は、新しく設立される朝鮮信託株式会社の社長の席を得るためのものだったため、贈り物には格別に気を遣った。 韓相竜は漢城(ハンソン)銀行総務時代にもそうだったように、高価な朝鮮の骨董と書画を‘贈り物用’にきれいに包装し、関釜連絡船に積んだ。 他の朝鮮貴族と親日官僚、財界人も東京へ‘ロビー活動’をしに行く度に、朝鮮「文化財」を包んで行った。
日本の民間人が自発的に私たちの文化財を返還する事例が一つ二つと出てきているのはうれしいことだ。 しかし日本に文化財が搬出された経路はあまりにも多様であり、日本人がむやみに搬出したものよりも、朝鮮人が賄賂として贈ったものがもっと多いかもしれない。 海外で飛び交う私たちの文化財は、私たちの意志とは関係なく、いつまでと国亡の痛い記憶を想起させるだろう。
チョン・ウヨン・ソウル大病院病院歴史文化センター研究教授
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