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黄氏は悲運の亡命客だった。金泳三(キム・ヨンサム)政権は彼に韓国内での自由な執筆と講演活動を保障すると約束した。しかし97年末の大統領選で金大中(キム・デジュン)候補が当選したことで黄氏は試練に直面する。対北朝鮮太陽政策を推進していた金大中政権にとって黄氏は邪魔者だった。米国や日本での証言や講演要請が殺到したが身動きがとれなかった。政府が「韓半島情勢に否定的影響を及ぼす」という理由で旅券発給を拒否したためだ。黄氏は金正日体制を批判した執筆やメディアインタビューの内容をめぐり政府と国家情報院などと深刻な対立を引き起こしたりもした。南北首脳会談から5カ月後の2000年11月に国家情報院は黄氏の北朝鮮民主化構想を、「偏狭な北朝鮮崩壊論的視角から冷戦的思考を拡散し自身の立場を強化しようというもの」と批判した。
さらには盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権発足5カ月目の2003年7月、黄氏は自身の腹心でありともに亡命してきた金徳弘(キム・ドクホン)氏と、国家情報院が用意した安全家屋へと追いやられた。
老亡命客をよりさびしくつらくさせたのは、北朝鮮に置いてきた家族の問題だった。モスクワ留学時代に出会った夫人のパク・スンオク氏(82)との間に1男3女をもうけた。長男の黄ギョンモ氏(50)の妻は張成沢(チャン・ソンテク)国防委員会副委員長の姪とされている。金亨稷(キムヒョンジク)師範大学教授の長女と、医師の二女と三女、教授と党幹部、外交官の婿らは黄氏亡命後にすべて粛清された。黄氏は北朝鮮当局により処刑されたとされる夫人について、自叙伝で無念さとともに謝罪の気持ちを明らかにしている。
李明博(イ・ミョンバク)政権発足後、対北朝鮮政策の気流が変わり、黄氏の行動の幅は広がった。今年3月末から4月初めには講演に招かれ米国と日本を訪問し、毎週大学生に安保講演をするなど、金正日体制批判活動を展開してきた。黄氏は最近まで健康な方だったと側近らは伝えている。脱北者出身博士第1号で、「主体思想の終焉」の著者であるアン・チャンイル世界北朝鮮研究センター所長は、「黄先生は金正恩(キム・ジョンウン)の話が出ると大きな不快感を示し、『あんな世間知らずの奴の話は私の前でするな』と話していた」と語る。
【黄長ヨプ氏死去】「北朝鮮の民主化」見ずに去った悲運の亡命客(1)
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