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在日朝鮮人帰国事業の国際的陰謀

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
 1950年代半ば、日本には「神武景気」という言葉が流行した。 「神武」とは日本最初の天皇の元号であり、神武景気とは建国以来最高の好況という意味だった。 当時、東京はすっかり建設現場となり、空中にはクレーンがあちこちに見られた。 核爆弾が2つも投下されて無惨に破壊された日本を哀れに感じた神が特別に与えた祝福だったのだろうか。しかしそれは韓国戦争(1950-1953)の大きな贈り物だった。 日本が米軍の兵站役を担ったためだった。

神武景気当時、日本に住む朝鮮人64万6000人(97%は故郷が韓国)の人間条件はどうだたのか。52年4月にサンフランシスコ条約が発効し、日本は独立国の地位を回復したが、それと同時に在日朝鮮人は植民地時代に強要された天皇の臣民資格さえ奪われ、一日にして外国人身分に転落していた。 日本の法律は外国人から選挙権と被選挙権をはく奪した。 公務員の道を封鎖した。 社会保障制度の受恵を制限した。 優秀な青年が大学に入っていく門を閉ざした。

在日朝鮮人が人生の希望を抱けない状況で日本の内閣は「在日朝鮮人帰国事業」を企画した。 日本は容易にパートナーを見つけた。 それは平壌(ピョンヤン)の操縦を受ける朝鮮総連だった。 しかし韓国政府の反発と国際社会の視線を意識せざるを得なかった。 このため人道主義の旗のもと、日本赤十字社が率先して国際赤十字委員会(ICRC)を粘り強く説得した。 政治的な陰謀の介入を認知したICRCは良心を痛めたが、ついに「故国に帰還する自由は、いかなる場合でも、人間各自が持つ、奪われることのない権利」という人道主義の旗を受け入れた。


59年2月に平壌が「在日同胞帰国迎接委員会」を設置した時、国際的な利害関係も絶妙にかみ合っていた。 日本は「負担になった外国人」を大量に押し出さなければならず、北朝鮮は戦後再建を支援した中国支援軍8万人余りの帰国にともなう労働力の空白を埋めながら道徳的優越を誇示することを望んだ。 中国は北朝鮮を支持し、フルシチョフのソ連は中国の影響力が大きい北朝鮮で発言権を強化する道具として帰国事業を支援することを希望した。 日米安保条約を改正しなければならない米国は隠密に日本の手をあげた。 韓国が一人で糾弾したが、空しく響いただけだった。

59年12月14日、日本の新潟から北朝鮮の清津へ向かう巨大な旅客船が「帰国同胞」をぎっしり乗せて汽笛を鳴らした。 1週間後にも同じ出港があった。 その時はまだ万景峰(マンギョンボン)号ではなかった。 ソ連のクリリオン号とトボリスク号だった。 軍事的脅威を云々する韓国の反発をかわそうとするソ連の協力だった。

その時から84年まで9万3340人が北朝鮮へ渡った。 このうち6730人は朝鮮人の家族構成員の日本人だった。 70年代に北朝鮮は‘半チョッパリ(日本人を表す侮蔑表現)’を粛清した。 悪名高い燿徳(ヨドク)収容所にも送った。 歳月が流れ、「北朝鮮行きエクソダス」が「北朝鮮脱出エクソダス」に変わった。 脱北隊列には帰国朝鮮人と日本人も相当数いる。 中国放浪の険しい道を経てまた日本に帰国したケースも少なくない。 人道主義で覆った国際的な取引が多くの個人の運命を苦痛と破綻に陥れたのだ。

新潟と清津を往来したその航路は東海(トンへ、日本名・日本海)の航路だ。 もちろん清津に降りた後には戻れない航路だったが…。 これが海底に沈んでいる‘東海の悲しみ’だ。

オーストラリア国立大のテッサ・モーリス-スズキ教授が在日朝鮮人帰国事業の国際的陰謀を暴き、07年に「北朝鮮へのエクソダス」という本を出した。 スズキ教授の労作は「今のここの私たち」に隠された時代の真実を告発する。 そして破片のように散在する人間の苦痛を復旧し、人間精神と時代精神を創造しようとする作家の視線と想像力を待つ。

李大煥(イ・デファン)作家、季刊「ASIA」発行人



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