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日本、太平洋戦争時、釜山で細菌兵器実験

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版
日本が太平洋戦争中だった1944年、釜山で細菌兵器実験をしていた事実が明らかになった。最近出版された「陸軍登戸研究所の真実」による。登戸研究所で研究員として細菌兵器開発に参加した伴繁雄氏が生前、同僚研究員たちが残した資料を整理した本だ。登戸研究所は旧日本陸軍第9技術研究所で、第2次世界大戦中、生物化学兵器開発と偽造紙幣製作を担当した極秘研究機関だった。

当時、日帝は牛に致命的な疾病である牛疫(rinderpest)を米国にまき散らすことにし、登戸研究所が毒を分離して凍結乾燥した粉末形態の細菌兵器を開発した。この細菌兵器の性能を確認するために釜山(プサン)と中国満洲などで実験をしたのだ。この本によれば44年5月、登戸研究所職員と爆発専門家などで構成された実験団が洛東江沿いのデルタに牛10頭を立たせ、細菌兵器実験をした。

これらは実験用牛に向かって爆破装置で毒の粉末を散布した。研究員たちはこの牛を当時の釜山市岩南洞(アムナムドン)にあった朝鮮総督府家畜衛生研究所(国立獣医科学検疫院の前身)に移して観察した。牛は実験後、3日目から発熱と下痢など典型的な牛疫症状を見せ、1週間後にはすべて死亡した。


この実験を直接担当した久葉昇元藤田保健衛生大学教授は「旧陸軍第9技術研究所(登戸研究所)第6研究概要」という論文に「実験結果は完璧な成功だった」と記録した。また「驚くべきことに実験場所から100メートルほど離れた所に閉じこめておいた研究用牛10頭も牛疫に感染して死亡した」と予想外の研究結果に研究陣が驚いたと述べた。以後、釜山で牛疫は発生していない。研究所はまったく同じ実験を満洲の関東軍軍馬防疫部隊でも実施した。陸軍参謀本部は細菌を入れた風船爆弾を最大20トンまで作って米国本土の牛を攻撃する作戦を検討したが、米国の報復を憂慮して実行には移さなかった。

日帝は45年敗戦直後、登戸研究所の関連資料を廃棄した。しかし80年代中盤から「加害者の歴史も記録として残さなければならない」と保存運動が起こったため、研究所の一部の建物が残ることになった。

今年4月には川崎市にある明治大学生田キャンパスに平和教育登戸研究所資料官が建てられた。資料官には戦争中に使われた風船爆弾など900点が展示されている。保存運動を主導した渡辺賢二資料官顧問は「当時、日本軍は細菌実験が日本本土の環境や住民たちに及ぶ影響は憂慮しながら植民地では実験しても構わないと思っていた」とし「そんな悪事を反省するために恥ずかしい記録を公開した」と言った。登戸研究所は来年3月ごろ、釜山で久葉元教授が作成した文書を根拠に実験場所の確認作業をする計画だ。





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