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1864年「南米のナポレオン」を自任したパラグアイの独裁者フランシスコ・ソラノ・ロペスはウルグアイ内政に干渉し、ブラジルと対立をもたらし、結局パラグアイの先制攻撃で戦争が始まった。万全な用意をしていたパラグアイ軍は開戦初め、ブラジルの南部2州を占領して勢いをあげるが、ロペス政権の外交不在で戦争はブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの三国同盟とパラグアイの3対1の争いに広がった。
結局1869年、パラグアイの首都アスンシオンが同盟軍によって陥落し、1870年、ゲリラ戦を展開したロペスが射殺され、戦争は幕を閉じた。無謀な戦争の結果は血なまぐさかった。三国同盟軍の死亡者も8万人に達したが、パラグアイは戦争前52万人だった人口が22万人に減少した。生き残った男性の人口が2万8000人だけだったなんて国の代が絶たれる危機だったわけだ。今も戦争を彷彿させる南米地域国家対抗戦の熱気を見ればこうした過去の残滓がサッカーを通じて浮きあがるのではないかという感じを消すことができない。
サッカーに再現される歴史の残滓は遠く行くこともなく韓日戦が最も良い例だ。正面対決のたびに熱をあげた両国サッカーファンは今回のW杯では果たしてどちらが良い成績をおさめるのかをめぐり熾烈な神経戦をした。韓国が16強で止まった後、パラグアイが日本の8強進出を阻止すると在韓パラグアイ大使館ホームページが韓日両国ネチズンの舌戦でダウンする事態が起こった。
米国の人類学者リチャード・サイプスは1973年「サッカーのようなスポーツは対立主体の間の攻撃的緊張を解消させ、戦争の代案として機能すると主張したことがある。対立しなければならないなら戦争よりはサッカーで解消した方が良いと思うが、1969年、エルサルバドルとホンジュラスはむしろワールドカップサッカー予選の過熱で本当に戦争(「サッカー戦争」と呼ばれる)をした。やはり何でも過ぎたるは及ばざるがごとしという聖賢のお話をもう一度思い起こしてみるようになる。
ソン・ウォンソプJES記者
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