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朝鮮宣祖22年(1589年)己丑年10月2日、黄海監司・韓準(ハン・ジュン)が出した一枚の秘密状啓(報告書)で朝廷が騒々しくなった。鄭汝立(チョン・ヨリプ)が全羅道(チョンラド)で挙兵し、漢陽に攻め込む計画を立てているということだ。三政丞六判書をはじめとするすべての堂上官が真夜中に宮に招集された。これが朝鮮王朝最大の惨禍である己丑獄事の始まりだった。
映画「王の男」のイ・ジュンイク監督が出した新作「雲から抜けた月のように」は、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)をわずか3年後に控えて起きた己丑獄事とそれをめぐる東人-西人間の激しい対立を冷静な目で眺めている。鄭汝立はもともと栗谷(ウルゴク)李珥(イ・イ)の弟子だったが、後に李珥や成渾(ソン・ホン)など西人の師を攻撃した。執権東人からは密かに保護を受けたが、西人にとっては厄介な存在だった。
乱を起こす能力もあった。1587年に倭寇が全羅道地方に侵入した際、自ら育てた大同契(反乱軍)を動員して部隊を集めたが、全州府尹の南彦経(ナム・オンギョン)は西人にもかかわらず「この人の才能にはかなわない」と感心した。また普段から「誰でも奉仕すれば君で、その人々も使えば人民だ」(何事非君 何使非民)という言葉をためらわずに述べ、大同を論じながら両班(ヤンバン)と常民を差別せず人々に接するなど、当時としては革新的な言動を見せた。結局、獄事が起き、西人の松江(ソンガン)鄭澈(チョン・チョル)が調査の責任を引き受け、1000人にのぼる名士が鄭汝立と懇意にしていたという理由で刑場の露として消えた。
獄事の余波は大きかった。禍を逃れた東人の中でも柳成龍(ユ・ソンリョン)と鄭仁弘(チョン・インホン)は獄事をめぐる立場の違いから生涯背を向け合った。壬辰倭乱の真っ只中の1596年、李夢鶴(イ・モンハク)は混乱していた湖南(ホナム)の民心を煽って乱を起こし、義兵長の金徳齢(キム・ドクリョン)は光る戦功にもかかわらずその仲間とされて殺された。このように多くの血を流したが、鄭汝立の乱自体が操作された事件だという陰謀説は今でも残っている。
映画「雲から抜けた月のように」で観客が面白さを感じる理由はまさに既視感だ。証拠と判断よりも「向こうは倭乱が起こると主張するが、われわれは起こらないと言うべきではないか!」という対応で一貫する朝廷、壬辰倭乱の勃発で都城を捨てて逃げる渦中にも両党が対立すると「避難する時でも一致しないのか」と怒鳴る宣祖の姿。海軍哨戒艦「天安(チョンアン)」のような一大事件をめぐっても党利によって解釈が変わるこの局面は、映画が終わっても終わらないような錯覚を与える。
ソン・ウォンソプJES選任記者
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